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5/14 鼻水の人類史

今日もうゆでした。

 

父親の昔の知り合いだという親切なおじさんと話すが、母親は彼をどうやらよく思っていないという意図も何も分からない夢を見た。

 

 

電車でタブレットを使って遠藤周作の『海と毒薬』を読んでいたのだが、鼻水が止まらなくて困った。電車で鼻をすすり続けるのは周りの人からしてみれば結構耳障りだろうし、かといってかむのも恥ずかしい。

 

 

ときに、出先で使った後のティッシュはどう処分するのが正解なんだろう。私はたいていかばんにビニール袋をひとつ入れることにしているが、予期していないラニーノーズ・インパクト(鼻水が止まらなくなること。また、そのさま。)が発生した場合はやっぱりかばんにそのまま突っ込むしかないのだろうか。友人はポケットティッシュから予め中身を全部取り出して、空の袋に使用済みのものを突っ込んでいたが、それではベタベタになってしまうしカバン中に散らばってもしまう気がする。

 

 

大抵、というか恐らくほとんど毎日、私の通っている学校の周りにはCPA(会計士予備校)のティッシュ配りが何人か立っている。ただ、私の所属する文学部は他の学部のある本部キャンパスと交差点を中心に歩いて5分くらいのところに隔てられていて、ティッシュ配りが立っているのは必ず私のあまり足を伸ばさない本部キャンパスへ向かう道中である。通るたびに最低2人は立っているので、本キャンに向かう生徒たちは、往復考えると一度の通学でおおよそ4つのティッシュを手に入れていることになる。大学のカリキュラムは前期と後期でそれぞれ14週、学校には週に5回行くと仮定すると1年で学校に行く回数は140回。ティッシュは1日に4つもらうことができるので、1年では4×140で実に560個ものティッシュを手に入れられる計算になる。これは結構な数だと思う。私は通うキャンパスがちょっと違うというだけで1年につき560個のティッシュを手に入れる機会を損失しているということになる。転部をして本キャンから移ってきた身ではあるのだが、ティッシュのために再び転部をするのも悪くないのかもしれない。

 

 

暑い日に出てくる鼻水が一番腹立たしいと感じる。寒い日なら「風邪をひいているな」と思うので納得はできるのだが、体の大部分は不快に汗だくになっているのに鼻の奥だけムズムズしている状態になると、暑いのか寒いのかどっちかにしろよ!とどうしても思ってしまう。

 

 

それに、一生懸命稼いだお金で購入した食べ物や飲み物のエネルギーが、鼻水を生産するためのリソースに費やされていると考えるとやりきれない思いになる。私は鼻の奥の骨が曲がっていて、それを異物だと判断した体が鼻水を出すように司令を出すらしい。炎症というよりは体の構造の問題だから、薬を飲んだところで鼻水が止まるわけではないし、根本的な治療をするためには骨を整形する大規模な手術を行うしかない。したがって、私はこのやるせない気持ちと恐らく一生向き合っていかなければならないのだろう。

 

 

人類の技術がいかに進歩したところで、少なくとも当分の間は、鼻から鼻水が出るという事実は覆らないはずだ。例えば卑弥呼とかナポレオンとか、アリストテレスとかも鼻水に悩まされたりしていたのだろうかなんて考えると面白い。いくら生きた時代が離れていようとも、現実的な身体性によって彼らと同調を図ることで、人類史も自分と同じ等身大の人間によって織り成されてきたことを想像しやすくなるのかもしれない。

 

人間文明の発展するスピードの目まぐるしさの割に、その主体としての人間の生物としての進歩はあまりに遅鈍だ。といっても、生物の進化というのが本来何億年もかけて達成されるべきものであって、人間の周りの変化がはやすぎるだけなのだが。脇毛や足の小指なんかも次第になくなっていったりするのだろうか。逆に手の指が6本になったり、目が3つになったりすることもあるかもしれない。

 

その過渡期を生きてみたいと思うことがある。例えば目が3つの天津飯みたいな赤ちゃんが生まれてきたとして、はじめはその特徴も差別されて忌み嫌われるのだろうが、何世代も何世代もかけて3つ目の人間が増えていくにつれそれが当たり前になって、やがて2つ目の人間の方が過半数を割る瞬間、人間社会にはどのような転換が起きるのだろうか。共生?あるいは戦争?

ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの争いもそんな感じで起こったのかな。

 

中高の図書室に『マンアフターマン』という人類の進化後の予想図を紹介する本があったのだが、そのほとんどが「寄生人類」や「水棲人類」など気持ちの悪いモデルだったため現生人類で良かったと胸をなでおろしたのを覚えている。(未来人からしたら現生人類もきもいのだろうが)

 

SFにはハイブマインドという概念があって、簡単にいえば思想のクラウド化、社会の中枢の巨大な脳が人類の核となって、肉体は交換可能なゾンビのようになるという思想だ。ファシズムとかスーフィズムとかそういうのに近いんじゃないだろうか。未来の人類のあり方として、可能性は決して低くないと思う。

 

もにゅとかを見ていると私より長生きするんだろうなぁと思う。長い目で見ればそんなに年の差が大きいとは言えないが、それでももにゅの方が私より先の未来を見届けられる確率の方が十分に高いだろう。今の20代付近の世代は22世紀に到達できるかどうか曖昧なラインにいる。

 

20 世紀の終わる瞬間にギリギリ乗り遅れた世代であると同時に、21世紀の終わる瞬間にギリギリ到達できない世代でもあると考えると、私は自分がひどく不幸だと感じることが多い。21世紀の終わりにもノストラダムス的やオウム的な終末思想みたいなものは生まれてくるんだろうか。同時多発テロに始まった世紀をしか生きられない人間として、その頃にはもう少し世界が平和になっていることを願ってやまない。

 

今日のアルバム

sign crushes motorist(Liam McCay)『i’ll be okay』

Liam McCayによるスロウコア。ローファイのざらついたギター、夕暮れの空へ目線を送る。

終わりかけた一日への憧憬と家路につく安心感の入り交じったアメリカンコーヒーみたいな味のするサウンドが低く、穏やかに垂れこめる。

 

 

 

 

 

ういなさん生誕。

ういなさんの土地は東京ドイツ村の敷地内にあるので、帰宅のたび入場料を払う必要があり、金欠。

 

みおさん生誕。

みおさんは5歳まで魔法が使えたが、6歳になるタイミングで全く使えなくなり、代わりに少しだけフラッシュ暗算ができるようになった。

 

クラウドファンディング。

クラウドファンディングくんの趣味は山登りだが、最近は「逆山登り」と称して庭に穴を掘って中にうずくまる気味の悪い活動を始めた。