超絶可愛い女装メイドの居るお店
男の娘カフェ&バー NEWTYPE
営 業 日:月曜~日曜・祝日
営業時間:18時~23時 (金土は~翌5時)

10/6 戸愚呂妹②

うゆです。

副業でパナソニックのマスコットキャラクターをやっています。

 

続きです。

 

 


タバコを地面に捨て、踵で火を踏み潰すと、あとには完全な沈黙だけが残った。私は立ち上がらなかった。羽虫が耳を掠めて爆撃機みたいな音を立て、しばらく私のそばで躊躇うように周回してからベンチに停り、またすぐに飛び去っていった。私はベンチいっぱいに両腕を広げ、足を大股に開き、腰を伸ばしてちょうど湯船に浸かるような体勢をとる。光の中に入浴する。汗が滴っては蒸発し、肌の表面は紫外線に焼け焦げてしつこく痛む。都営のゴミ処理施設で働いていたころのことを私は不意に思い出してみたりする。来る日も来る日もゴミを焼き尽くす爆炎のすぐ側に立って、私の肌は常に赤く腫れて少しの刺激にも意固地な炎症を起こした…。過去のことばかり考えてしまうのは死の気配にひっそりと抱かれていることの証明だろうか。生命の力に満ちた公園は、つまりは死の濃密な匂いに満ちている。その芳香に艶やかな酩酊の感覚を覚えながら、戸愚呂妹がついぞ最後まで聞くことのなかった話を、これまで何度もしてきたのと同じように、私は一人で長いこと頭で反芻し続ける。

 

 

結果からいえば私は負けた。それも、完全に負けた。彼の演技はそれほどまでに完璧で、どこからどう見ても文句のつけようがなかったのだ。普段なら飄々としていたはずの男の周囲には思わず身を竦ませてしまうほどの気迫と熱気が立ち込め、肉体は正中した若さの圧倒的な輝きを帯び、腰には不可視の剣が輪郭をとって獰猛に光った。この世界にはきっと彼以上にオセローに相応しい男など存在しないのだ、後ろで見ていた私ですらそのように思った。当然コンペの結果は予想通り、オセローの役は松村が演じることに決まった。覚悟はできていた、しかしその先だった敗北の確信はそのあとに襲い来る激烈な恥と失望の感覚を少しでも和らげるようなものでは決してなかったのだ。まだ若かった私が失ったのは単なる機会だけではなかった、取り戻しようのない絶対的な全能感とプライドもまた私の中からごっそり抜け落ち、それらがあったはずの空洞に吹き荒ぶすきま風は内側から私の記憶をぐちゃぐちゃに掻き回した。私はそれから絶えず何をしていても誰かに嘲笑われているように感じ、全く衰えることのない新鮮な絶望に毎晩身を捩って耐えなければならなかった。そうして私は次第に松村へ憎悪の感情を抱くようになっていった。

 

 

感情は燃え続けた。それが少しでもゆらごうとするたび、私は恋人と松村がともに舞台に立つ光景を半ば自傷的に脳裏に浮かべることでそれに燃料を焚べようとした。やがて私は極限まで膨れ上がった感情に押しつぶされ、息も絶え絶えになって松村のことよりほかに何も考えられなくなってしまう。限界を悟った私はある日彼を打ち合わせと称して誰もいない早朝の稽古場に呼びつけた。

 

 

「一体なんの用ですか?」

 

 

松村はシニカルに口の端を歪めて笑った。それだけでも私には彼が先輩である私にほんの欠片ほどの敬意も持ち合わせていないことがはっきりと分かった。

 

 

「先輩と二人で会うなんて珍しいな。初めてじゃないですか?」

 

 

「そうかもしれない」

 

 

「申し訳ないんですが、僕にはこんな形で先輩に呼ばれたことに心当たりがないんですよ。」

 

 

「そうだろうね。だからといって後輩を早朝に呼びつけちゃいけないなんてルールはひとつもないだろ?」

 

 

松村は肩をすくめた。

 

 

「それならそれで、手短にお願いしますよ。今日は一限が控えているんです。」

 

 

私は答えなかった。その代わりに拳を固く握りしめると、なんの前触れもなく松村の顔面に向けて拳を振りぬいた。頬の生物的な弾力の向こうに、拳は並び立った歯列のこわばりを捉える。それが衝撃とともにかき鳴らされる振動は私を野蛮な満足感で満たした。血の混じった唾が飛び散る。私は吠え声をあげながら遮二無二松村の顔面を殴り続けた。顔を庇おうと必死で掲げられた腕を振り払い、長く伸びた髪を引っ掴み、サンドバッグの要領で真正面から彼の顔面を叩き潰す。彼の表情が驚愕から困惑、苦痛へと変化し、そして徐々に悲しそうなものへと変化していくのを、私は残酷に高揚した感情の向こうから、動物実験を見届ける冷徹な研究員のような気持ちで静かに観察する。数秒前までは美しかったはずの色白の顔は今や血にまみれておどろおどろしい暗褐色の岩塊のごとく潰れ、あらぬ方向に捩れた鼻梁は道化師のつけ鼻のように滑稽極まりなかった。顔中に広がった内出血の打撲痕がはやくも熱をもって腫れぼったく、次第に厚いゴム製のボールを叩いているような感触に近づいてくる。

 

 

「俺は一体どうしてこの男を殴っているんだろう」

 

 

私は思わず考えながら声に出して言っていた。

 

 

「さっぱり分からない。俺は悔しいのだ、だが絶対にそれだけじゃない」

 

 

喉の奥から勢いよく脳髄を突く灼熱の破壊衝動は呼吸を止めて私をぼんやりとした無我の快感へと導く。殴打のたび拳の皮膚をすり減らす摩擦のエネルギーは、この理不尽で一方的な急襲において行為する私と行為される松村とを等しく切りつける二等辺三角形の頂角だった。松村のズタズタに裂けた唇から漏れ出る声は弱々しく、この場面の支配者としてあることへの実感は私を得意な気持ちにさせた。しかし私は私が松村を殴らなければならない理由をどうしても探しあぐねていた。憎しみが明快な答えとして内面を必要以上の光で照射しているために、そのさらに奥の方へ落ち窪んだ陰影がより強固な暗闇を湛えていることを理解しつつも、眼前の眩さに目を細めざるを得ない私は暗闇の中に潜む恐ろしい存在の正体をついぞ見極めることが出来ずにいたのだ。

 

 

結局私は死体のようになってしまった虫の息の松村を稽古場に残したままそこを去った。彼は同じ姿勢のまま気を失っているところをその日のうちに他の部員に発見され、総合病院に運ばれて手術を受けたうえで一ヶ月ほど入院したが、自分をそのような目に遭わせた張本人の名前はついぞ口にすることがなかったという。松村が不在になったことでオセローの代役の打診が私に回ってきたが、私がそれをにべもなく拒否したことで、結局新入生歓迎会の全公演は中止されることになった。そういうわけでこの事件の顛末は一切が謎に包まれたままとなり、誰もが何となくそれについて口に出すことをはばかるようになって、やがて表向きは誰の記憶からも消えてしまったように見えた。

 

 

松村が自分のことを黙秘したという事実は私を大いに不審がらせはしたが、恥じ入らせるまではしなかった。それはもはや私の中にプライドのようなものがすっかり摩耗しきって消え失せていたからなのかもしれないし、あのオーディションの瞬間から松村に対する決定的な敗北感をただちに実感した私にとって、彼によって身元を守られることは、女が男に対して大概その通りであるように、当然のことだと思うようになっていたからかもしれない。しかし松村に行使したあの殺人的な破壊衝動の根源にある自分自身の暗闇の正体は結局分からないままで、それが常に渦を巻いて力をつけ、時折喉元までせりあがってくるようでもあるのを常に知覚せざるを得ないことの絶望的な焦燥感は、私を少しづつ厭世的でシニカルな人間に作りかえることとなった。果てにはノストラダムスの予言するアンゴルモア大王の到来を心から信奉して毎晩窓の外を見つめるようにすらなったデカダン気取りの青年は、やがてサークルに顔を出さなくなり、学校やアルバイトにすらへも行かなくなった。授業にも出ず知り合いも訪れず、私は四畳一間の完成した宇宙の中に引きこもったまま、冷蔵庫に溜まった缶ビールのストックが切れたら死のうと考え、フロンガスにしんしんと冷えた自分の寿命がすり減っていくのをどこかせいせいした気持ちで眺めていた。あの事件は恐らく私という人間を決定的に変えてしまうようなものではなかった。しかし、角度にしてたった1度の微細なズレが、ゆくゆくは元の矢印との間に巨大なクレバスをぱっくりと生ぜしめてしまうこともまた珍しくはない。私は徐々に解離していく本来の自分自身へ絶望的なメーデーを送り、やがてそれも無用だとわかって、とうとう不貞腐れて眠り込んでしまっただけだったのかもしれない。

 

 

松村が私の部屋を訪れたのは今にもビールが切れようかという頃だった。扇風機をつけると部屋中に埃が舞って松村は咳き込んだ。夏が始まろうとしていた、私たちはベッドの縁に並んで腰かけ、最後に残ったビールをそれぞれ一缶づつ開けた。カーテンを閉め切った部屋は薄暗く、あらゆる静物が息を潜めて無言の間に失われてしまった季節への長い喪に服しているようだった。積み上がった漫画雑誌、埃を被ったレコードの束、潰れて散らばった空き缶のひとつひとつ、例えばその全てが。

 

 

「あれは災害のようなものでした」

 

 

松村は生々しい傷跡の未だにくっきりと刻まれた顔を歪ませるようにして一言一言をゆっくり発音した。私はもうビールを半分以上飲んでしまっている。

 

 

「話すとまだ痛みます。頭を何針か縫って、歯を何本か差し歯にしなけりゃなりませんでした。でも僕は先輩を恨んでなんかいない。」

 

 

往来で子供たちのはしゃぐ声。カーテンの隙間から差し込む午後の光。松村の口調からは以前のような嘲弄めいたニュアンスは感じられない。

 

 

「理由は分かりません。でもそれはきっと先輩が僕を殴らずにはいられなかったのと同じ感情によるものだと思う。僕も先輩も、未だに見つけられていないはずのもの。」

 

 

私は驚いた。自分の心の中にある一番柔らかく敏感な部分を不意に指で弾かれた気がした。

 

 

「どうして知ってるんだ。」

 

 

「何となく、わかるんです。僕には昔からそういうところがある。」

 

 

「人の気持ちがそこまでわかって、どうしていつもあんなふうなんだ。」

 

 

「わかるからこそですよ、わかったところでどうということのない心の動き。喜びとか苦しみとか、大抵の人の心にはせいぜい言葉にできるくらいの起伏しかないんです。そしてその外側にある、考えるだけでも恐ろしくなって気が狂ってしまいそうになるくらいの心の動きには誰も気づきさえしない。僕は思うんです。本当に人を人たらしめるものとは、実は言葉という光に照らされた心の領域の外、深く重く渦をまく暗がりの奥底にあるんじゃないか。それをみすみす見逃しているような人間を、僕はあえて人間だとは思わない。」

 

 

松村は手に持った缶を予想外の握力で簡単に凹ませてしまう。開け口からビールが少しだけ飛び散って床を汚す。私は口を挟んだ。

 

 

「しかし、俺たちにとって気づくということは、同時に言葉で捉えるということをまた意味するだろう。その瞬間、お前のいう類のものは言葉の領域の範疇に入ってしまうということになるんじゃないか?つまり本当の深みにあるものは、さらにその外側にあって、言葉の鎖に繋がれた俺たちはどうやってもそれに追いつくことはできない。」

 

 

「その通りです。全くもって、その通りだ。」

 

 

松村は満足そうに頷いた。

 

 

「だから僕たちは本当に気づかないか、気づかないフリをするほかない。それについて考えたって無駄なことだから。そもそも、考えた時点でもう言葉の範疇に到達することは不可能だ。アフリカへ行くのに新幹線のチケットを買うようなものです。」

 

 

そうか、と私は呟いた。あの日の自分自身の不可解な行動に、少しだけ納得のいく理由付けがなされた気がした。

 

 

「俺はきっと言葉の代わりに、君という他者をもってその暗がりへようやく踏み込もうとしたのだ。」

 

 

ビールを飲み干して缶を潰し、壁に貼られたカート・コバーンのポスターへ勢いよく投げつける。水滴が飛び散って彼の膝の辺りが濡れ、缶は気の抜けた音を立てて脱ぎ捨てられた靴下の上に落下した。私がカート・コバーンを知ったのは彼が死んだ少しあとだった。流行に乗って安く買った中古のMTVのヴァイナルは傷だらけでとても聴けたものではなかった。

 

 

「俺はそれを垣間見た、しかし超えることまではできなかった。遠巻きに見つめるだけが精一杯だった。きっとそれで俺は挫折してしまったのだと思う。他の多くの青年たちと同じように、俺は挫折したのだ。一世一代をかけた闘争に俺は敗北した、そして今カタツムリのようにただ一人死のうとしてこのつまらない抜け殻の中に黙ってひきこもっている。」

 

 

「きっとそれもひとつの答えです。そしてそれは決して間違いではない。それで良かった。」

 

 

私は首を振った。

 

 

「それで良かったんだ。」

 

 

松村はくりかえした。そして隣から不意に私を抱き寄せ、呆然として固まる私の首筋を舌先で愛撫し、左の耳たぶをよく潤った唇で軽く食んだ。私はびくりとして彼を引き剥がした。松村は凪いだ目で私を見た。その顔は今や目を背けたくなるほど醜かったが、私は努めて彼の目を見つめ返した。

 

 

二人はしばらくそのままでいた。少しして今度は私がぎこちなく腕を松村の身体へ回し、首元に顔を埋めた。洗剤の清潔な香りに交じって、ほんの少しだけ彼の匂いがした。「ありがとう」私は耳元で囁く。耳たぶの細い産毛が光に透けて弱々しい獣の腹のように波打っていた。

 

 

やがて私たちはどちらともなく、おずおずと体を離した。胸に残った松村の僅かな体温が扇風機の風に簡単に冷やされていくのを私はひどく残念に思ったが、悲しくはなかった。私が彼を殴打していたあの瞬間以上に、私たちが互いに近づけることなどないと思ったから。憎しみという明快な感情をただ募らせた結果、知らず知らずのうちに私が育て上げていた語り得ぬものの質量は、やがて松村が張り巡らせていた自閉の被殻を打ち破った。それで私たちは前よりもずっと親密な温度を互いに対して感じられるようになった、しかしそれだけと言ってしまえばそれだけの話だった。人を愛するには、私たちはあまりに臆病すぎたのだ。

 

 

次の日、久々に外出して東中野の名画座でブレッソンの映画を二本続けて観た。銭湯で久々に湯船に浸かり、帰りがけに街で一番いい匂いのするパン屋でクロワッサンを一つだけ買った。家に帰るとドアノブに袋がかかっていて、中を見ると缶ビールが1ケース入っていた。

 

 

その日はクロワッサンをつまみにビールを3本飲んだ。カート・コバーンのノイズだらけのヴァイナルをかけ、ひとしきり泣いたあとで、もう少しだけ生きようと思った。

 

 

私は再び学校に通い、新しく家庭教師のアルバイトを見つけた。恋人とは別れたし、友人の幾人かとは断絶した。それでもサークルにはしばしば顔を出すこともあったが、松村と顔を合わせることはついぞなかった。風の噂で、彼は地方の他大学への編入試験のための勉強を始めたときいた。

 

 

日はゆっくりと傾こうとしている。目を細めると、空の端の方が夜めいた群青色に染まりかけているのが見えた。そろそろ帰ろうか。私はゆっくりと立ち上がり、尻の下に潰れたアリの死骸を発見してため息をつく。ジーンズは今日中に洗わなければなるまい。深呼吸をすると烈日のざらざらした余熱が肺に満ちて思わず二回だけ咳き込んだ。光と影のちょうど混じり合う時間。わかっていたはずのものが少しだけわからなくなり、わからなかったはずのものが少しだけわかるようになる時間。戸愚呂妹の電話の鳴るのがもう少しだけ遅ければ、せめて私の話がもう少しだけ進んでいれば、彼女が行ってしまうことはなかったのかもしれない。しかしもう考えても仕方のないことだ。彼女と私との間には初めから何もない。たまたま互いの写真を同じ方向にスワイプしただけの話なのだから。

 

 

私は井の頭公園を出、少し回り道をしながら久我山方面へと歩いた。黒みがかった川面に街の灯が揺らめいて綺麗だった。影は徐々に長く伸び、その分薄まってアスファルトの灰色に今にも溶け去ろうとしていた。今日は久々にビールを買って帰ろうか。何かを変えるにはきっともう全てが遅すぎるのだろうけど。

 

 

 

 

 

 

【今日の一曲】