超絶可愛い女装メイドの居るお店
男の娘カフェ&バー NEWTYPE
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営業時間:18時~23時 (金土は~翌5時)

木を見て森を見ず

めいです。
もう冬ですね。

こちらはラーメンです。

野菜マシ(400g)
背脂マシマシ(160g)
にんにくマシマシ(15g)
麺普通(400g)

汁まで飲んで大体1300gといったところでしょうか。

二郎系に来ると毎度、自分自身が何を食べているのかわからなくなります。
最初の5分間に至ってはもやしをひたすら食べる時間です。

シャキシャキの食感をかき分けて進む中に少しずつもやしは汁の味を体に纏わせ、ようやく味蕾がラーメンに触れ、麺が顔を出してくるわけですが、そこまでくるのにもはや疲労。うめえんだがな。

ぶたがまたでけえんだなこれが。森をくぐる間浸しておいて味を染み込ませるのですが、ほろほろと口の中で溶けていくかと思いきやガツンと肉の主張をしてくる。

正直この一杯で一日分の食事が賄えるまであります。

さて、ラーメンの本質とはどこにあるのでしょうか。

ラーメン大食いなんかを見ているともはや、麺ではなくもやしが大量に重ねられている姿が散見します。無論、それがコストカットに繋がりドカ盛りの提供に至るわけですが。

「木を見て森を見ず」という言葉を最近よく感じています。

言葉というのは、国によって大きく異なり、単語の表層的な意味のみならず、その成立した背景によって若干のニュアンスが変わります。

九鬼周造に言わせれば、「そら」という単語は英語において「sky」、ドイツ語において「himmel」ですが、それはあくまで意味のみ、文化は除外されています。

日本人が見てきた「空」には、山と海に囲まれ田んぼが豊かに育ち、ヨダカが燃え尽きるように飛んでいく「空」。

「sky」にも「himmel」にもそういった背景があります。

「手」と「hand」
「青」と「blue」
英語ではなんという?
と言われればそうと答えるしかありませんが、きっと我々日本人ではその細かいニュアンスを感じられるようになるまでに現役世代がいくつ変わるかわかりません。

言葉というのは曖昧な概念。概念というのもそもそも曖昧なもの。思考回路の違う生命体が会話をするにあたり妥協点を見つけるために照らし合わせたのが言葉というもの。

同じ文章であれとも感ずるものは変わってくる。

話し合いという点においては、単語そのものではなく、文脈を汲み取らねばうまく行かないことも多いのです。

こと日本語においては非常にそれが難しい。

言語を学ぶにあたり、成立やその背景においてなかなか日本語というのは稀だなと感じます。

先ほどの、妥協点を探すために他者と他者が照らし合わせる、というのが主な言語の目的であるとしたら、日本語というのは非常に効率の悪い言語と思えます。

日本語は曖昧でもよい、というのが前提にあります。

たとえば外国の詩であれば、韻を踏むというのが詩の中心です。

knight、light、bright、right、なんてものが文末において踏まれることにより詩が成立しています。

日本語の詩の場合、古来より伝わる俳句というのは韻ではなく、文字の数、そして季語。

情緒を伝えることが目的なのが日本語だと思っております。

そのため言葉に対するニュアンスというのが千差万別であり、それは島国であり、全員が同じ言語を有する国だからこそ生まれた価値観のように思えます。

日本語での会議というのは踊りに踊る。

言葉へのニュアンスが異なることを楽しめるのは庶民のみ。
公人の人間にとって、日本語ほど厄介な存在はないでしょう。

可能性の話をしているのに何かを限定しているように捉えられてしまったり、ということで大抵の議論は踊るものです。

日本語というのは、木を見て森を見ずでは成立しないのです。

おやすみなさい。