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Crossdressing Maid Cafe & Bar
"NEW TYPE"!
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(日本語) 7/30

夜半に雨でも降ったのだろうか、開け放した窓から吹き込んでくる風は湿ってどこか土の匂いがした。起き上がってブラインドを上げ、ベランダの朝顔に水をやる。今朝咲いた形跡のある花はすでに萎れていて、ほとばしる水滴にぶつかって惨めな様子で震えた。朝顔が萎れている、それはつまり現在の時刻がすでに少なくとも朝の10時を回っていることを意味していた。朝顔というこの高慢な花は実に美しい色の花弁を毎朝愚直に開いてみせるようなのだが、それは頑なにも早朝の数時間だけに限られ、少しでもそれに乗り遅れた怠惰な寝坊助には決してその絶高の瞬間を見せてくれはしないのだ。私は朝顔の若々しい葉を言い訳がましく撫で、その表面に生え揃った柔毛の生物的な連なりを確かめる。我が家にやってきたときには今よりずっと弱々しく、貧相な病人のようであった葉々の全体は、私の献身的な管理によって今や若々しい潤いに満ちた緊張を全身に張り巡らせ、蔓用の支柱を飲み込んでしまうほどの勢いで盛んに繁茂していた。
低質なベッドマットのために強ばってしまった全身をほぐし、喉の乾きに顔をしかめながらレコードをかける。リストの愛のテーマ、ピアノ小品集である。ダニエル・バレンボイム演奏のもので、私はここ毎朝この1枚を聴くようにしている。電子上の不定形のデータから取り出された情報の帯ではなく、紛うことなき円盤状の身体から奏でられた音楽は、微細な違いこそ分からないとは言え私にとっては地に足のついた充溢の感覚を確かにもたらすものであった。イヤホンから脳へ、直接楔として穿たれた音楽はどこか現実感を欠いた奇妙な反重力の方向づけを与えられたもののようで、それを長く浴び続けていしまったことがここ最近私を執拗に悩ませていた離人の錯覚を引き起こした原因だったのではないかと今では思っている。レコードによる身体的な音楽との結び付きのためなのか、あるいは単純に一生懸命飲み続けているつまらない錠剤のためなのか、それは定かではないが、ここ最近の私は身体と私なるものとの親密さを再び取り戻しているようだ。少なくとも映画はほぼ毎日観ることができている。昨夜は北野武の『菊次郎の夏』を観た。武演じる菊次郎の傍若無人で愚かしい振る舞いと、その極限に滲み出るたどたどしい愛情とが、私の父の姿に重なって少し泣いた。私の父は酔うと必ず母や私を殴りつけたものだった。怒号とともに放たれるアルコールの鼻をつく匂いを、腹の脂肪で張りつめたランニングシャツを辛うじて掴み返す自分の幼い掌の感覚とともに今でもよく覚えている。私はまだ父のことを完全に許しているわけではないし、今でも同じ屋根の下で生活することがままならない状態ではあるものの、生きている中で自分の中にふと父との血の繋がりを感じるとき、つい満更でもなく照れくさい気持ちを抱いてしまうのもまた事実なのであった。
レコードの針が表、裏と完全に周回し終えてしまうまでの間、時間をかけて詩を読む。それは日によってランボーであったり、マンデリシタームであったり、あるいは吉増剛造であったりする。つまり、毎朝の言葉との出会いはとりとめのないかたちでなされるということだ。今日は中原中也を読んだ。私は彼の詩が好きだ。どこにも行けない不自由な身体で、どこか遠くばかりを夢見るのではなく、どこにも行けないことそのものをできる範囲で愛そうとしているような言葉。飛翔の力強い羽ばたきを得れば遠くの海の煌めきを透徹することはできるが、同時に街路樹の梢を透かして届く穏やかな陽に包まれた地表の温度を知ることもなくなるだろう。飛べない人にとって空は、したがって果てしなく空虚なものであり、我々はその膨大な空虚を一身に引き受け、それでも歩みを止めるわけにはいかないのだ…

枝々の 拱みあはすあたりかなしげの
空は死児等の亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野のうへは
あすとらかんのあはひ縫ふ 古代の象の夢なりき

中原中也「含羞(はぢらひ):在りし日の歌」『汚れつちまつた悲しみに……』集英社、1991年、88頁参照。

冷蔵庫を開けて、水出しのレモングラスティーのボトルをとってグラスになみなみと注ぐ。冷蔵庫にはリンデン、ラベンダー、レモングラスの3種類の紅茶が常に備えられていて、私はそれを毎朝気分に応じて選択し、飲み干すことをこの頃の習慣としている。中学生の時分に読んだ「黄金風景」の、「毎朝々々のつめたい一合の牛乳だけが、ただそれだけが、奇妙に生きているよろこびとして感じられ」という一節が今でも強く胸を締め付ける情念とともに記憶に残っている。太宰にとっての牛乳は、私にとっての水出し紅茶である。労働者の牛乳に比べて大学生の紅茶ではいかにも甘ったれた感じもあるが、生きているのだから仕方がない。グラス1杯の紅茶によって、私も生きていることにようやくしがみついているのだ。ともかく、大切なのは自分の身体を見失わないことである。朝顔の毎日の変化に気を配り、外部の運動するものとして音楽を捉え、冷えた紅茶が強ばった身体の隅々まで行き渡る同化の感覚を余さず捉えようと心を研ぎ澄ませること、そのようにして行われる小さな体験の一つ一つが、私をこの世に生きる私たらしめ、みずみずしい変化に対して恐れずに自分をひらくことを可能にするのだから。

違ふ!……立て! 相次ぐ時つ風の流れの中に!
砕け、我が身体、この思ひの輪を!
飲め、わが胸、この風の誕生を!
一陣の爽風が海から立ちのぼり、
私に魂を返す……潮の力!
波に走り寄り、飛沫を揚げて蘇らう!

ポール・ヴァレリー著、中井久夫訳『若きパルク/魅惑』みすず書房、162頁参照。

今日のアルバム

Daniel Barenboim『Liszt: Dreams of Love; Consolations;
Sonnets of Petrarca; Rigoletto Paraphrase』