超絶可愛い女装メイドの居るお店
男の娘カフェ&バー NEWTYPE
営 業 日:月曜~日曜・祝日
営業時間:18時~23時 (金土は~翌5時)

子供のころに影響を受けた本①

ハイサイ毎度

ちょちょ夢心地

人    生    は    冒    険    や    !

 

うゆです。今月5個目のブログ。怒られない?

今回は小学生のころにうゆが影響を受けた、というか熱中した本について書きました。読書体験の原点です。6作あって、その全てを1回で書こうとしたのですが、例によって思ったより早く5000字を超えてしまったので分けることにしました。暇だったら読んでください。いつも「読んだよ」とか「おもしろかったよ」とか、ご帰宅して言ってくださる方が多くて嬉しいです。感無量です。長いのにいつも読んでくれてありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

「少年探偵団」シリーズ

 

 

小学二年生の6月をすぎたあたりから、妙に迫力のある不気味な表紙の本を読んでいるクラスメイトの姿が教室にちらほらと見えるようになった。ことに雨の日には、教卓から休み時間の教室を見回すと、その禍々しい表紙が教室のそこかしこから私をじろりと睨んでいるのが分かった。それは薄暗くじめっとした雨の日の教室にあってひどく薄気味悪い具合に目に留まるのであり、放課後になると私は、暗雲垂れこめるがらんどうの通学路にひそむ魑魅魍魎の類を勝手に想像しては幼心に心から震えあがるような心地さえするのであった。

意を決して尋ねたのはそれを初めて見かけてから一週間ほど経った頃だった。

「それ、なんだい?」

いつものように席について静かに例の表紙を広げているクラスメートの野村くんへ、私は恐る恐る尋ねた。反応は意外にあっさりしたものだった。

「小説さ、これがまた面白いんだ。」

小説。紙片に文字のびっしりと埋め込まれ、あまつさえそれが何百頁も連なっているという、あの愚にもつかぬ塊。私は今でも、自分が彼の答えを聞いてひどく驚き、そして首を傾げたことをよく覚えている。というのも、そのときの私には、小説など大人の読むホコリっぽく黴臭い、時代遅れの、退屈を具現化したようなたわけたメディアだという思い込みがあったのであり、それをまだ小学一年生の自分たちが読んでよいなどと想像すらしていなかったためであった。したがって小説を読んでみる、楽しんでみるという行為はまことに分不相応で、自分にそれができるなど想像だにしていなかったのだ。

しかしそんな私にも表紙の魔力は圧巻であった。精緻な油絵で描かれ、暗闇にぼうっと立ち現れた想像を絶する怪奇の図。そこを開けば一体いかなる冒険が私を待ち受けているのだろうか。胸が踊った。

「ちょっとこれ貸してくれないかい?」

「もちろん、いいともさ」

野村くんは親切な男の子であった。信じ難いことに首の皮がよく伸びるという特技ひとつで教室での地位を確立していた彼は読んでいた図書室の本を私にその場で又貸ししてくれた。それが少年探偵団シリーズの『電人M』、私が生まれて初めて手にした小説であった。

それは端的に言って素晴らしい経験だった。私が求めていた人生の快楽はここに、あの表紙の向こう側にあったのだ。胸躍る冒険、手に汗握る激闘、宵闇におおわれた帝都に広がる耽美な怪奇世界。江戸川乱歩という怪奇小説の鬼才は、時代を超えてなお少年少女の世界に恐怖と喜びを与えてやまないのである。夢中で読みふけった。図書室と教室とを往復し、授業中、休み時間、通学路でも歩きながら本を開いた。私は想像することを知った。手の届かない世界の、一見実現不可能に思えるような可能性の数々も、想像力とそれを表現する意思さえあれば作品という形で結晶化することができる。私は文章というものの力に圧倒され、すぐに飲み込まれていった。読んで、読んで、読み続けて、気づけば私は誰よりも深く小説世界の虜になっていた。このようにして私は文章というものに出会ったのであった。

 

 

特に印象に残っているエピソードのひとつは『鉄塔王国の恐怖』。二十面相に誘拐された少年たちが、世界征服を目論む鉄塔王国軍のカブトムシ兵として訓練させられるという話だ。悪漢の囚われの身となって、自分の意思とは反する目的のために動くことを強要される少年たちの姿は、今の私の性癖の根本を形づくっていると言っても過言ではない。少年探偵団シリーズにありがちな「誘拐」「人質」というモティーフが最も色濃く反映されたものの一つであり、カブトムシ兵という発想は子供ながらに奇天烈すぎるような気もしたが、やはり私の根本的な被虐欲と冒険心の形成に大きな影響を与えた一作として忘れることはできない。

 

そして『二十面相の呪い』。古代エジプトの遺物を所有する研究所に怪人二十面相が忍び込む。短編で構造も地味だが、大正、昭和時代の雰囲気とエジプトという一見ミスマッチなような各要素がエキゾティックな期待を掻き立てる。この本に関しては、確か兄が親に買ってもらって、彼の読み終わったあとに貸してもらった覚えがある。確か雨の日だった。雨のガラスをうつ淡白なリズムが静かな部屋に空々しく響き、窓越しに差し込む灰色の光が部屋を薄く包んで、憂鬱な雲海の中にいるような気持ちでそれを読んでいた。作品において、限られた空間の中で結ばれる緊迫した空気は徐々に湿度を増し、極度に凝縮し、時間が本来の正常なリズムを失ってゆく。そこでは永遠が一秒に、一秒が永遠にさえなりうる。うだるような蒸し暑い筆致、不快。圧倒的密度であらゆる緊張の詰め込まれたこの小説空間はまさに時間の棺桶というべきであろう。

単純である。退屈である。駄作である。だからこそ素晴らしい。

 

 

 

 

 

 

ここでCM!

コリアンイヴェントやります!日程は4/11-13日の3日間!

韓国っぽいお酒やお料理が出たり、キャストが韓国っぽい衣装を着てお給仕したりします。韓国の文化知りたいよね。イヴェントの目玉はアイリによる韓国民謡200連発リサイタルです。ボエ〜。

 

 

 

 

 

 

 

②「ズッコケ三人組」シリーズ

 

 

夏休みを控えたある日の休み時間。図書室の窓の外には熱波にうだるひまわりが何本も連なって高く聳えていた。少年探偵団シリーズを早くも全て読破した私は、図書室の脚立をちょっとづつ横にずらしてゆき、とうとう本棚の未知なる平原の探索を開始した。しかし残念なことに、学校に置いてある児童書の多くは基本的に単行本であることが多く、その場合文庫本と違って裏表紙にあらすじが書かれていることがないため、内容をざっと見て次に読む本を取捨選択することは難しかった。したがって、私は表紙やタイトルを見、「海底」だとか「恐怖」だとか、そういった自分の気に入りそうなワードを拾って借りることにしていた。

その日の私は真剣だった。図書室は夏休み用の体制へとシステムを変更していて、一度に借りられる本を5冊までと特別に設定していたのだ。この5冊で夏休みが変わる。そう思うと本を選ぶ私の目つきも自然と鋭くなっていった。

その結果選ばれた本は全て合わせると重く、正直に言って小学二年生の力には余った。しかし全身で感じる紙のずっしりとした質量は、来るべき長い休みと、何か一つの本に向き合うことの覚悟のようなものを端的に私に突きつけるのであり、私も私で自らと物とのあいだに結ばれた真剣な対話関係を鋭敏に察知して、いつもよりちょっと丁寧な字で貸出カードへの記入をおこなってみたりするのだった。

そのとき借りた本は正確には覚えていないが、小学二年生にしてはいささかませたラインナップだったような気がする。確か『本当にあった怖い話』と「アルセーヌ・ルパン」シリーズの『813の謎』、ここまではいいのだが、それに加えてモンゴメリの『赤毛のアン』が含まれていて、それは頁にして400頁ほどとなかなか少年探偵団以後のステップアップとしては急峻すぎる気もした。それから残りの2冊に「ズッコケ三人組」シリーズ。図書室の先生は私の持ち込んだ本と私の名札の色とを交互に見比べ、「もうこんなに読めるんだねえ」と驚嘆したように呟いた。それで私はちょっと得意な気がするのと同時に、やはりこれらはまだ自分には早すぎる代物なのではないかと一抹の不安に襲われもした。

不安は的中した。全く理解できなかったのだ。現代の小学生向けに敬体で書き直された『少年探偵団』シリーズの文章に慣れきった私には、常態で書かれ、また文字もいちだんと小粒になった『赤毛のアン』および「ズッコケ三人組」シリーズはあまりに不親切で冷たい気がした。そうして何も分からないまま夏休みは過ぎ去り、私はその間に両親にブックオフで買ってもらった「デルトラクエスト」シリーズを読み(両親は服も漫画もお菓子も買ってくれなかった割に、本の購入に限ってはお金を出し惜しみしなかった。その教育方針が良くも悪くも今の私の嗜好に影響を与えている。)、夏休み明けの図書室へ、気まずさと敗北感で頭をいっぱいにしながら向かったのだった。そして

「面白かったかな?」

優しく語りかける先生に顔向けもできぬまま

「まあまあ」

と強がりを言うのが精一杯なのであった。

 

 

私が再び「ズッコケ三人組」に出会ったのはその2年後、名札も緑色になった小学四年生のときであった。私は兄の友人で学年一の秀才、後に開成中学校への進学を果たす「たかちゃん」と懇意になっていた。思えば、私の人生において、直接優れた読書指南をしてくれた知り合いはたったの二人しかおらず、彼こそそのうちの一人だったろうと思う。

そして、自分が私と同じ年齢だった頃に熱中していたシリーズとしてそんな彼がおすすめしてくれた本こそ、ほかならぬ「ズッコケ三人組」シリーズであった。無論私には二年前の挫折に根ざす苦手意識もあって、はじめはたかちゃんの進言といえど半信半疑のままなかなか手に取らないままでいた。

「でも、これつまらないんだよ、知ってるんだ。」

「そんなことをお言いでないよ。今の君ならきっと読めるはずだよ」

たかちゃんは優しかった。辛抱強く、しかし無理強いはせぬよう私に「ズッコケ三人組」を推薦してくれた。そしてついに私は読んだ。

一年後、シリーズの全てを夢中で読み尽くし、おまけに通っていた学習塾の本棚から最終巻をネコババまでした私は、はるか遠く新天地でかつやくしているのであろうたかちゃんに心からの感謝を伝えていた。つまり、それだけ素晴らしいシリーズだったということだ。特に私の気に入っていたのは表紙裏に描かれたクラス全員のイラストと、作品の主な舞台となる花山町のマップである。巻を追うごとに新しいクラスメイトが活躍し、何でもなかったはずの場所での冒険が明らかになると、はじめは知らない他人ばかりだったはずのクラス図が少しづつ馴染み深い友人たちの集合写真のように映ってゆき、つまらないただの町だった花山町は数限りない冒険の宝庫へと様変わりしていくのだ。

読書とは想像というビークルに乗って完全なる未知を飛び回る冒険である。そしてそれはやがて現実へと変わる。ハチベエ、ハカセ、モーちゃんの三人とともに、泣いたり笑ったり、ケンカをしたり窮地に陥ったり、そして固く手を繋ぎあったり。そのようにして乗り越えた冒険と思い出の数々が、単なる空想であることを超えて私自身の記憶と紐づいて確かな血肉となり、素晴らしい日常生活の冒険への活力を漲らせてくれるのだ。「ズッコケ三人組」は私にとってかけがえのない友だ。私の中に彼らと過ごした時間は確かに存在していて、その中で感覚した私もまた今の私自身の中に息づいている。想像を現実にする力、「ズッコケ三人組」が与えてくれたのはそんな素晴らしい経験だったろう。

 

 

特に印象に残っているのは、まず『参上!ズッコケ忍者軍団』。対立していた中学生グループへの敗北によって辱めをうけたハカセとモーちゃんのかたきを討つためクラスメートで忍者軍団を結成、メンバーは数々の試練を乗り越え、知略と工夫をこらして最終決戦へと臨む。

これはあまりにも面白すぎてなかなか寝られず親に怒られた記憶がある。続きは明日と約束のうえ電気を消されたが、常夜灯の明かりで無理やり続きを読んでしまった。ほとばしる激情と若さ、真っ直ぐな怒り、そしてそれ以上に大人の庇護を離れ、自分たちの力で何か大きな動きを作り出そうとする少年たちの純粋な情熱が詰まっている。

 

次に『うわさのズッコケ株式会社』。埠頭での釣りブームに目をつけた3人がお弁当販売を開始、それはやがてオリジナルの株式会社の設立に繋がり、新商品の立案、原価計算と経営戦略、株主総会での熱いやり取りへと発展していく。はじめの方に読んで本シリーズにぐっと引き込まれたきっかけとなった。とどのつまり「ごっこ遊び」こそ冒険の始まりなのだ。家族ごっこ、お医者さんごっこ、警察ごっこ、そして株式会社ごっこ。それらが具体的な知識や工夫を伴って限りなくリアルに近づいたら?子供は遊びを通じて自らの可能性を知り、胸躍る成長への期待に歓声をあげるのである。細かいお金の計算や現実味に溢れた試行錯誤、そして株主総会での息詰まる攻防など、虚構の中に徹底的に作り込まれたリアリティが素晴らしい読書体験を生み出す。

 

最後に『ズッコケ財宝調査隊』。ブックオフで買ってもらえて、何度も読み返したことでも思い出深い本作。モーちゃんの実家に宿泊する3人は、ダム建設によって水没した村と、そこに眠る財宝の噂を耳にする。謎の釣り人との出会い、奥田一族のルーツ、そして現在と過去が交錯するとき、3人は、衝撃の真実を目撃する。まず導入のシーケンスが素晴らしい。北京原人について著した脈絡不明な数ページから、日本軍のとある極秘任務の緊迫した一幕、そこから一転して小学校の修学旅行へと場面が切り替わり、3人だけがモーちゃんの実家に泊まるために帰途へ向かう一行から離脱する。なんとも期待をかきたてる開幕ではないか。こんなに素晴らしい導入を私はほかに見たことがない。サスペンスとして非常に優れていて、「北京原人」と「旧日本軍」、「ダム建設」、「小学生」、これらの各要素が素晴らしいバランスで混じり合い、謎を深め、物語を一気に神秘的な領域へ運び去ってしまう。ものすごいエネルギーをもった一作で、映画化されてもおかしくないくらいだ。相米慎二とかで上手いこと雰囲気を出してやってほしかった。

 

 

おわり。

6つ紹介するつもりが、長くなって2つしか紹介できなかった。

続きはまた今度。