うゆです。
塾で教えているとき、板書をホワイトボードに全部油性ペンで書いて、最後にバケツいっぱいのベンジンをぶっかけて帰ったことがあります。
ヨギボーの話もこれで終わりです。
「次の日、イワキリくんは私にママとのことについて何も言うことはなかったし、基本的には率直で誠実極まりない男の子のままでいてくれた。でも私はもう少女であることも大人であることも否定してしまっていた、あの恥の感覚に耐えるにはそのようにして自分を守るより他に術がなかったの。だから結局私たちはよそよそしい、ただのクラスメイトのようになって、二人きりの世界の中に閉じこもるようなことはもうしなかった。休日に会うこともやめた。そしてその頃から私はときどきマスターベーションをするようになった。家だけでなく、学校のトイレ、河川敷、ひとけのない雑居ビル、場所は選ばなかった。どうして自分がそんなことをしなくてはならないのかなんて私には今でもわからない。冬、休業した街のバレエ教室のドアに寄りかかるようにして座り、寒さに身体を震わせながら、冷えて感覚の朧げになった指先で自分自身を弄った。中は少しだけ暖かくて、私はイワキリ君の体温を思い出して切なくなる。私は自分がやはり女であることを確かめ、失望し、その中核である最も敏感な傷口をさらに抉って痛めつけようとした。そんな私の哀れなほど醜く険しい表情がドアのガラスに映っている。しかし震える吐息はガラスを曇らせて二人の私同士を隔ててしまう。私は自分が誰なのか、あるいは何者なのかわからなくなって、ひとつ身震いをして、湿った指先が凍っていく痛みに耐えながら家に帰ってゆく。
そんなある日、イワキリ君が突然学校を休んだことがあった。それは入学以来おそらくはじめての出来事で、クラスメイトたちも心配そうにしていたのを覚えている。私は彼の家を訪ねてみることにした。あれ以来個人的に話すことなんてまったくなくなってしまっていたけれど、私は確かに彼のことを必要としていたんだと思う。それは、あの日から全くわからなくなってしまっていた自分とこの性との距離を、多分イワキリ君という男の子の存在を相対化することによって、なんとか掴み直せるんじゃないかと思っていたのかもしれない。放課後、彼の家を訪ねるとお母さんが出て、彼が休んだ理由がなんの変哲もない病熱であることを教えてくれた。私が彼と仲が良くて、今日も心配でついでに来たのだというとお母さんは簡単に私を彼の部屋へあげてくれたわ。でもうつらないようにマスクをしてね、それだけ言ってね。彼は私の姿をみても特に驚いたような様子は見せなかった。いつものように「おう」と言って一生懸命体を起こそうとした。私はそれを止めなかったわ。久しぶりだね、来てくれてありがとう。いいのよ、あの日は、ごめんなさい。僕もごめん、無理言ったのが悪いんだ。私たちはお互い目も合わせずに謝って、それで前みたいにしばらくなんてことのない話をした。私たちはそのときだけ前のように戻ったみたいだった。私は女とかじゃなくてただ彼と一緒になって恐る恐る未来を探ろうとする一人の若者に過ぎなかった。でも、病気の影響もあるのでしょう、そのうち彼がもう眠いと言い出して、私が何か言う前にベッドに倒れ込んで眠り込んでしまった。熱は思ったより高いようだった。いつも溌剌としているイワキリくんがそれほど衰弱しているのを見るのは少しショッキングだったわ。そしてその感覚は次第に彼の肉体への憧れを衰微させ、今なら私でも彼の身体を征服することができるのではないかという挑戦的な破壊衝動に結びついていった。あれだけ輝かしく、絶対のものだと思っていた黄金の肉体。それは今や錆び付いて私より遥かに弱々しいものとして目の前に安置されている。私は彼の布団をそっと剥いだ。ベッドに乗って彼の上に跨り、ズボンと下着を脱がせて、彼の弱々しく縮んだ性器を露にした。自分が今何をしようとしているのか、それは不思議とはっきり分かっていた。私は眠っている彼を犯したの。正確に言えば、犯すというにはあまりにお粗末で、必死で、のろま極まりない突撃のようなものに過ぎなかったけれど。私はどんな形であれ男である彼の肉体と結ばれることで、自分が凹凸の対としてそれにぴったり合致する女であることを自分に対してはっきり突きつけてしまおうとしたの。この訳のわからない自己同一性の迷宮からはやく脱したかったのね、お前はもう逃れようもなく女なのだ、女である以外に道はないのだ。そうやって無理やり選択肢をなくしてしまった方がずっと簡単でしょう?でも結局それはうまくいかなかった。本当なら私にはまだ、あのトラウマを乗り越えるために長い長い時間をかけて自分の性を受け入れていくという選択肢があったはずだったし、きっとイワキリ君もそれを助けてくれたのだろうと思う。しかし私はその選択の結果が果たされるのを待つことなく、ただ答えを急いだ。それだけの話にすぎなかった。つまり私は彼の肉体を純粋に自分のためだけに利用したのよ。そのことについて、私が決して自分を許すことなんてできないのは当然のことだし、かといって許さないと思うこともできない。なぜなら、ある出来事を振り返って何らかの言葉を持とうとすることは、それを相対化することであり、つまりそれをある種乗り越えてしまうことになるから。私に今ひとつ言えることは、罪の意識とは決して言葉にして語られるべきではないということ。人に対しても、あるいは自分自身に対してもね。罪を犯した人間は当然のこととして自分で刑期を決めてはいけないの。誰かが自分を許すか許さないかの判決を下してくれるまで、宙ぶらりんになった罪障感の札を首に提げ続けていなければならないのよ。私はあのときイワキリくんが起きていてくれたらと何度も思った。彼が私の犯行を1から10まで見届け、私に対してほんのわずかでも憎悪の気持ちを持っていてくれたら。そうすれば私は少なくとも自分の刑期を知り、諦めとか絶望とか、とにかく何らかのかたちで償おうとするための口実を得ることができる。
私の10代はそのようにして過ぎたわ。私は自分のことを許すことも許さないこともないまま、あの日あの瞬間に自分自身を固着させて、罪の意識という以前の息の詰まるような沈黙の中に生きた。黙々と勉強に身を投じ、どんな形であれ自分を大切にしてくれるママの期待に応えるために正しい発達をする女の子でい続けたわ。歴史法学に出会い、ジミ・ヘンドリクスに出会った。そして成人を経て、大学の3年を迎えた夏、私は短期インターンで訪れたオフィスで再びイワキリ君に会うことになった。年齢のためか彼は前より素直で屈託のない少年ではなくなっていたものの、変わらず礼儀正しく敬意にあふれた青年だった。私はあの日以来中学を卒業するまで彼のことは避け続けていたから、そのようにして顔を合わせるのはまさにあの日ぶりだった。彼は都内の国立大学に進学して文学を学んでいると言った。私たちは仕事のあとで神田駅近くのバーへ繰り出し、あの頃よりずっとよそよそしく、それでもとても穏やかに昔を振り返り、すでに過ぎ去った、取り戻しようのないものとしての思い出を懐かしく語り合った。二人とも慣れないリクルートスーツを着て、だけどすでにお酒を飲めるようになっていた。相変わらずこれといった力も持たないまま、少しづつ世界に対する自分の力量を探り探り進んでいくような、やっぱり私たちは二人ともそんな若者だった。もちろん私はあのことについて、どれほど泥酔を決め込んだとしても決して口を割らなかったし、彼だってそのことはつゆほども知らないはずだった。彼に気づいていてほしかったとあれほど思い続けていたはずの私は、かといって彼の判決に向き合うだけの覚悟もなく、罪に対してなすすべもなくだんまりを決め込んでいたわ。バーを出ると、私たちは自然な流れでホテルに行き、当然のことのようにセックスをした。いつかの雨の祝日のときとは違い、私たちはどうしたら互いの身体を温められるか、とっくのとうに知っていた。私たちは器用に、とても素直に互いを求め、受け入れた。二人とも相手がオルガスムを迎えるために心を尽くし、私たちは何度も絶頂に達した。それは素晴らしい夜で、私はもう過去や罪のことなんてどうだっていいのだとすら思うほどだったわ。それで、ことが一通り終わって、互いにぐったりした体でベッドに潜り込み、ささやかで陳腐な愛の言葉を二言三言交わした後で、私はついに彼に聴いてしまったの。ねえイワキリ君、私がもしあなたのことを自分を満たすための道具としてしか思っていなかったとしたらどう思う?あなたというより、あなたに映った自分自身だけが好きだったのだとしたら。するとイワキリ君は答えた。どうも思わないさ。本当に?本当さ、どんなに正直に生きようと思ったところで、人はいつか誰かを自分のための道具として扱ってしまうことがある。一度君の家に行ったことがあったろう?実はあの日、僕は君とセックスがしたくてしたくてたまらなかったんだ。君のおっぱいを揉んで、君の暖かさを感じたかった。そのために、僕は君に嘘をついて、君の正直さにつけこんだんだ。だから君のお母さんが帰ってきてくれてよかったと僕は思っている。僕は今でも時々あの日のことを不意に思い出すことがあるよ。夜眠りにつこうとするとき、タマネギを切っているとき、ペットボトルからラベルを分別しているとき、トイレットペーパーを補充しているとき。どんなに努力してみたところで、僕らは決して過去からは逃げられない。そういう宿命なんだ。それじゃあ、私たちは日々膨張していく過去の質量を一身に背負い、惨めな未来に向かってよろよろと進んでいくしかないの?そのままではいつしかそれに押しつぶされてしまう日がきてしまうのではないの?僕らはその分誰かを愛することができる。互いに愛し合い、互いに許しを与えることができる。罪は裁かれなければならない、しかし裁くことは同時に許すことをも意味するんだよ。それは決して悪いことではない。でも、私の罪はもう遥か昔に遠ざかっていってしまった。イワキリ君、あなたはもうあの頃のあなたではないし、私もあの頃の私とは違う。それでも、過去の罪は愛によって裁かれ、許されることがあるの?あるさ。時間は一直線の矢印じゃない。ずっと昔のことは案外今のすぐそばにあって、ついさっきのことが遥か遠くにあることもある。それでも君が君の罪を遥か遠くのものにおもうのだとしたら、僕は君のことを遠くから許そう。現在の岸辺から、君が留まっている過去の岸辺に向けて、声を枯らして叫ぶよ。それが本当に君のことを愛しているということの意味だと思う。きみが僕の部屋に来てくれた日、実は僕があの後目覚めていたのだとしても、僕は君を愛している…。それで私は彼が私の罪をずっと分かっていたことに気付いたわ。私が実は彼の嘘をわかっていたように。」
いつの間にか日はとっぷりと暮れていた。間も無くして受付のシマノさんが館長に施錠の確認をしにきて、最後に私たちに「ありがとうね」と言って出ていった。それで私たちも館長にいとまを告げ、今晩中に標本の製作を終える予定だという彼を一人残して昆虫館を出て、来たときと同じようにバスや電車を何本も乗り継ぎそれぞれの街へ帰った。その途中で私たちは館長や彼女の語ったことについて改めて話し合うことはせず、ただ展示のこと、最近の出来事のことや、仕事のことなんかをいつもの通り話し合った。
結局彼女は自分が大学をやめた理由や母さんのもとを去った理由までは語らなかった。彼女は結局のところいまだに自分のことを許してはいないのかもしれないし、許さないことによってかろうじて自分の中の何かを保とうとしているのかもしれない。ただ一つ言えるのは、それらのことを語るのにまだ時期は早すぎるのだということだ。あの場所で館長が恐らく何かを語らなかったように、私が私自身のことを語らなかったように。それらはきっと彼女の中に変わらずとどまり続け、いつかどこかの場所で、何かの出来事をきっかけにしてまた不意に溢れ出すのだろう。もちろんそれは私の前とは限らないし、一生訪れることもないかもしれない。彼女はそれから間もなくして会社を辞め、今はお互い全く連絡も取っていない。私たちの人生はジミ・ヘンドリクスという一つの点で交わり、そして本質的な孤独という点で別れた。私はこの話を彼女ではない誰か、例えばあなたに向けて語るのだし、私自身のことはまた別の誰かにむけて語り直すはずだ。彼女もきっとそのようにするはずだろう。私とは違う誰かが今彼女の隣に座っていてくれるなら、かつてその語りの場に同席した友人として、私にはそれで十分だ。
地下鉄の改札階から地上に出て寒さに思わず身震いした。街をゆく人々は身をすくませて足早に歩き、中にはもう冬物のコートを着込んでいる人もいた。
「私、こっちだから」
彼女の乗る路線の改札は少し離れていた。
「またね」彼女は小さく手を挙げて言った。
「またね」私も同じように返し、白いトレンチコートを着た彼女のほっそりとしたシルエットが雑踏に紛れていくのを見つめた。そのとき、穏やかな秋の名残を追いやるようなひどく冷たい風が強く吹きつけた。
「真冬」と私は彼女の名前を呼んだ。
「あなたの季節よ」
彼女は振り返ってにっこりと笑った。
終わり
【今日の一曲】