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10/3 石と詩的宇宙について

はじめまして。うゆです。

明日トゥクトゥクでチーターとレースをするので応援に来てください。小竹向原です。

 

日記だと内容がバラつくし、書くこともないので、ランダム単語ガチャで出た言葉をテーマに書きます。

 

 

石でした。

 

 

 

ロシア語の詩人、オーシプ・マンデリシタームの第一詩集のタイトルは『石』といい、彼が20歳のときに発表されたものだ。
彼は後にバラツィンスキーやゴデロスキーら詩人グループと「アクメイズム」という詩の潮流を創出し、象徴主義文学を批判しながら言葉の質実な意味どうしの響きあいを重視する詩をつくっていくのだが、この『石』という第一詩集のタイトルにはそうした彼の言葉に対する考え方が端的に現れているようである。本来なら同じく詩人にとって重要な意味を持つモティーフである『貝殻』がタイトルとして選ばれるはずだったが、それは象徴主義詩人らへの決別、アクメイズム的傾向の深化といった意味合いを含んで後に改訂されることになった。

 

 

石。土くれやまばらに生え散らかった数本の雑草に混じって転がっている無用のもの。石ころ、つぶて。友達とかわりばんこに蹴りつつ家路を辿ったり、河原で拾ったのを水切りに使ってみたり、思えば石は常に下を向いて見つけるもので、それを下から見上げることはなかった。だから、石は重さや単純さといったイメージと結び付けられ、どうしても浮遊とか理想とかいったような、広がりのある言葉とは疎遠になってしまいがちだ。おまけに、人が少年から大人になり、背が高くなっていくにつれて、視線が徐々に石の転がる地面から離れていくと、それに意識的に目を向ける機会もめっきり減ってしまう。変わらず地面に転がるばかりの石は、大人たちに忘れ去られてしまったまま、ただ寂しげにそこにあり続けるのだ。思えば長いこと、石というものに対して格別の注意を向けることはなかったように思う。形とか重さとか、あるいは素材とか、そんなことをいちいち考えている暇だって全然ない。

 

しかし石とは、人間の芸術的営為を象徴づける「建築」という行為において、いの一番に用いられる最小単位として、その一つ一つに固有の意味体系を包含しているということができるのである。
例えば、「積み重ねる」という言葉を聞いたときに、私がはじめにイメージするのは人がレンガのような直方体の石材を上に重ねている絵である。あるいは、「基礎/base」という言葉は、なにか石のようにソリッドな素材が地面を覆っている様子を連想させる。

 

フランス人の郵便配達員が30年以上もかけてひとりで作り出した「シュヴァルの理想宮」という建築物も、全て単純な石材の積み重ねのみによって成り立っているが、その建造のきっかけは彼が地面に転がるありふれた石ころを偶然「発見」したことだった。思えば誰しも、道端に落ちている石ころをふと気に入って持ち帰り、机の引き出しに集めておいた幼い日の経験があることだろう。

 

 

私が最も好きな漫画家の一人であるつげ義春という人の代表作に『無能の人』という中編がある。売れない漫画家として妻と一人息子を抱えながらその日暮らしをする男が、日銭を稼ぐために多摩川の石を拾って売り出そうとする話なのだが、もちろんその辺の石ころに値段がつくわけがないので、彼の石は品評会でも一円の値もつかないまま、妻の小言と息子の切なそうな目線を横に、彼は背中を丸めて夕暮れの街へとぼとぼ帰っていくのだ。情熱もなければこれといった才能のない男の、一人前に家族ばかりを抱えて毎日を無為な妄想に耽って終わらすもどかしさや切なさと言ったらない。しかし面白いことに、それを読んでいるうちに当然男の事業が奇跡的に上手く運ぶよう祈らない人はいないわけで、そうなると彼の拾った石ころになんとかして面白そうな要素を見つけ出そうとするようになる。あのヒビは稲妻のように見えるんじゃないかとか、形が石にしては結構幾何学的なんじゃないかとか、そのような理由付けを考えてまるで男と同じように石拾いをしているみたいだ。もちろん大人になって河原で真面目に石拾いをしている人なんて奇矯な人であるに違いないが、数多ある石の中からこれぞと思うものを探し出し、収集したいと思う欲求のようなものは誰にでも備わっているのではないか。レコード、切手、はたまた瓶ジュースの王冠まで、人間の収拾本能の例をあげれば限りがないが、石集めというのはその中でも最も原始的な形式の一つであるといえよう。

 

石には人間の建築に向かう純粋な本能を刺激する素材としての静謐な力が宿っている。重さがあり、それぞれの形式があり、手触りがある素材。一つ一つは単純でも、それらを積み重ね、存在どうしを共鳴させ、人を包み込む伽藍を作り出すこと、それが建築の素晴らしい営みであり、石というものが秘めた無限の可能性なのだ。

 

ことゴシック建築においては、新しく発明された交差穹窿/リヴヴォールトの力学作用によって、本来重厚な質量を蓄えていたはずの壁面が大幅に軽量化されると、薄くなった壁にステンドグラスがはめ込まれ、教会内部の伽藍には色とりどりの光が差し込むようになった。マンデリシターム自身もこのような建築構造には並々ならぬ興味を持っていたとみえ、「海軍省」や「ノートル・ダム」に見られるように、建築について扱った詩も少なからず残している。

 

アクメイズムは、まさに石のそのような性質を言葉のそれに重ね合わせ、一つ一つが確かに意味を持つ建材としての言葉同士の組み合わせによって、詩という建築物を創り出すことを目標としていた。「リンゴ」といったときに、それを「食べる」とか「植物」といったような機能的意味付けに限定した使い方をするのではなく、「アダム」とか「赤と緑」とか、より多層的な象徴的意味付けを行うことによって、小さな紙片に限定された文字表現としての詩の内部に、無限に振幅しあう言葉どうしの詩的宇宙を創り出してみせるのである。濱口竜介監督『悪は存在しない』にもみられるように、物事に象徴的意味付けを付与しようとできるのは人間固有の特性である。機能と現象ばかりに支配された自然界の広大な暗がりにおいて、唯一複合的な意味の集積を愛することのできる存在。言ってしまえば、詩を読むこととは人間であることの喜びを改めて噛みしめる行為でもあるのだ。

 

石は人間の力の素体だ。文明の営為はそれを収集し、積み重ねるところから始まっている。それは我々の素朴な本能の中に、遊びの中に、未だ垣間見ることができるのだし、それだけに単調であるということは単純であるということを必ずしも意味しないのである。例えば非常にミニマルな要素のみによって成り立った映画。それらは概ね我々に対して興奮に足る十分な情報を与えてくれるわけではないが、それだけに映画内に映し出されたモティーフのひとつひとつは確かな重みを持ち、反響するイメージの緊密に凝固したソリッドな石材としての呼吸をはじめる。

 

アンドレイ・タルコフスキーの作品にこれといったストーリーテリングはなく、セリフや音楽も意地悪なまでに削ぎ落とされているが、彼が多用する水のモティーフには、流転する自然のリズム(ピュシス)、あるいは反復する記憶といったような、文章にしたとて言葉に尽くしがたい豊穣で深慮な意味合いが含まれている。彼の映画はミニマルで、限りなく寡黙だが、それだけに多層的な意味を無言のまま振幅させて一方では饒舌なのである。精霊たちが騒がしくおしゃべりをしているはずの深い森の中を歩く人が耳を劈く圧倒的な静寂に耐え難い痛痒を持て余しているのと同じことである。何かの芸術を鑑賞するとき、我々は石材たるモティーフの秘められた意味に耳を傾けなければならないのだし、そうすることによってこれまで顧みることのなかった数限りない豊穣な言語と出会うことができるのである。
みなさんも是非足元にある石ころを拾ってしげしげと眺められたし。そのたった一つの石ころからどれだけのイメージ、言葉を引き出せるかという試みの中に、あなたの詩的宇宙のビッグバンは爆発のときを今か今かと待ち構えているのだから。

 

 

無関係の、良いY字路

 

 

【今日の1曲】

ねえ、今どんな気持ち?みたいな歌です。優さんが好きそうです。