うゆです。
ナメック星に日帰りで旅行してきたのですが、雨だったのであまり面白くありませんでした。
続きです。
階段脇の表示を見ると、建物の2階には昆虫の生体が展示されているようだったので、少し遅れて展示を見る彼女を待つことにした。
「2階は生きてるのがいるみたい。行ってみましょうよ」
「ちゃんと世話している人いるのね。なんだか安心したわ。」
「世話って、当たり前じゃない」
私は笑ったが彼女のいうこともわかる気がした。辺鄙な場所を訪れたときに決まってなる、世界から自分だけが取り残されてしまったような心細さ。しかしそこに当然働いている人の存在を思い出すとひどく安心したような気持ちになるのだ。そればかりか、そこに毎日とどまり続ける以上その人は自分よりずっと孤独に違いないだろうと、身勝手な憐憫をもって傲慢に身を奮い立たせようとさえすることもあるのだった。
2階は1階に比べてずっと狭かったが、その分中身がぎゅっと詰まっているような印象だった。縦に2段重ねられたケージが部屋の奥までずらりと並んで、それが3列もあった。これに毎日餌をやり、ケージの環境を整えるのは、もしかしたら標本を手入れするより大変かもしれないと思った。何せ、昆虫が生きている以上毎日の世話には終わりがないのだ。私たちは今度はヒソヒソ囁き合いながら一緒にケージを見て回ることにした。昆虫は種類によって草や枯葉とほとんど見分けがつかないようなものもあり、ひとつひとつその姿を見つけ出していくのには骨が折れた。私たちはケージの中をよく見るためにお互いに顔をピッタリと寄せ合ってギリギリの距離で覗き込み、どちらがより早く虫を見つけられるか競争をした。私もそれなりにうまくやったはずだが、彼女にはどうしても敵わなかった。彼女はどんなに雑然としたケージであっても、実に見事に虫の姿を探し当ててみせるのだ。
「まずは全体を見て、自分だったらどこに一番寝床を拵えたくなるか考えるの。一人暮らしで毎日ご飯ももらえるなら、私はきっと1日の大半をベッドでゴロゴロして過ごすと思うから、虫にもそういう場所があると思えばいい」
そう言われて私もケージを見つめてできるだけ居心地の良さそうな場所を探したが、枯れ葉の重なった隙間にも、木の枝の分かれ目にも、あるいは光さす草葉の切っ先にも、私が住みたいと思えるところなんて全くなかった。
やっぱり自分のベッドがいいわ、そういうと彼女は、実を言うと私も、と笑った。
時間をかけて2階にあるひとしきりの展示を回り終え、階段を降りようとしたときだった。
「どうでしたか、気に入ったのは見つかりましたか」
後ろから声をかけられ、振り返るとそこには豊かな白髪を蓄えた小柄な老人が立っていた。その顔は笑い皺でいっぱいで、それでなくても四角く角張った顎のせいで口元は常に笑っているように上向きに湾曲していた。
「ええ。思っていたよりもたくさん」
と彼女が私よりも先に答える。それで私も老人を見ながら頷いた。老人は嬉しそうに「そうですか、そうですか」とさらにしみじみとしたような笑みを浮かべた、彼が笑うと顔中にワッと花の咲くように皺が広がる。
「よかったらここに出していない標本も見てみませんか。お好きなら美味しいコーヒーをお淹れしますから。」
彼は実にゆっくりと、その大きな顎で一言一言を確かめるように言った。それで私にはこの老人がこの施設の館長なのだと察しがついた。私はちょっと面白そうだと思ったが、どうする、というように横の彼女を一応見やると、彼女は片方の眉を吊り上げて言った。
「時間もあるし、そうね、お言葉に甘えさせていただこうかしら。」
同意見だった私も続いて「それじゃ、よろしくお願いします」と言って頭を下げる。そして
「館長室は2階の奥ですからね、もともと昆虫の本が置いてあった辺りを改装したんですわ」
と上機嫌に語る館長について歩き、廊下の突き当たりにある小さな部屋へ足を踏み入れた。
はじめ天井が低いと思ったのは実は高く聳える重厚な本棚が三方の壁中をぐるりと囲んでいるからなのだった。ただ、本棚の中身が全て本というわけではなく、一見したところでも館長が先程言っていたような展示に出ていない標本であることが分かった。隙間からかろうじて見える窓からは、葉の散りかけたブナの木肌が秋晴れの穏やかな陽に包まれて健康的な青年の腕のように輝いて見える。部屋は狭いが基本的によく整理されていて清潔感があった。真ん中に置かれたガラス製のテーブルを中心に座り心地の良さそうな肘掛け椅子が四つ並び、それらから離れて仕事用と思しき上等な机と椅子が据えられている。机の上には今しがた製作していたと思われる作りかけの標本とそのための道具が出しっぱなしになっていた。こんなところでずっと働けるならどんなにいいだろうと私は思った。唯一の問題はこの場所があまりに心細そうに思えることだ。
「どうぞ、おかけください」
と老人は私たちに肘掛椅子の方を示し、
「今コーヒーを持ってきますから。あいにくここには給湯設備がない。自由にしといてくださいね。」
と言って部屋を出ていった。私たちは椅子に深く腰かけ、館長の親切な申し出について二、三言感想を口にし合った。
座った状態で見回す部屋にはより圧迫感があり、本棚によって分厚く補強された壁面のために、余計に外部から全く孤絶してしまっているような印象があった。
「何を見せてくれると思う?」
「とにかく、ものすごいやつよ。本来私たち庶民にはひた隠しにされている汎用コンチュウ型決戦兵器とか、ね」
「カミキリムシ・ロボかしら」
「カミキリムシ・ロボかもしれない。」
「カミキリムシ・ロボなら顎を使うわけでしょう?ライフルとかは使えないのかしら」
「ライフルを使うカミキリムシなんて、ぞっとしない話。」
そんな冗談を口々に交わしあっているうちに、ポットにコーヒーカップ、それからマドラーにミルクやら砂糖やらを載せたトレーを器用に片手で持った館長が戻ってきた。
「失礼、お待たせしました。」
彼はトレーをテーブルに置いてから私たちの対面にやおら腰を下ろし、慣れた手つきでカップにコーヒーを淹れ始める。
「これが実にいい豆なんです。コロンビア産の希少種を発酵させたもので、飲んでみると実にフルーティだ。」
私には彼の言っているのがコーヒー豆のことなのか、はたまた昆虫のことなのか分からなくなってきたのだが、差し出されたコーヒーをひとくち飲むなりそんなことはもはやどうでも良くなってしまった。ほんの少量にも関わらず、館長の言う通り果物のような、しかしどの果物とも違う独特の華やかな香りが口いっぱいに広がる。一方でコーヒー特有のコク深さも残っているためにジュースを飲んだあとのような甘ったるさもなく、恐らく浅煎りということもあってフルーツティーのような爽やかな後味ばかりが残るのだった。
「おいしい」
と思わず呟いた。彼女も横で頷いている。
「それは良かった。せっかくいい豆を仕入れたのに一人で飲むのは味気ないんです。こんな辺鄙なところ来る人なんて滅多におらんでしょう。かといってシマノさん、受付のね、もコーヒーなんか飲まないと言うし」
「そう言ってくださると、私たちも訪れた甲斐があります。なにせ、遠いのなんの」
「左様。ここは電車にバスじゃあ都合が悪すぎるし、車でも細い山道を譲り合いながらぐるぐる回らにゃあなりませんから、誰も来たがらないですね。」
館長はため息をついて顎髭を撫でた。どうやらそうするのが彼が話しているときの癖らしかった。髪と同じように白い髭は髪よりもツヤツヤして透き通っており、私は昔水族館で触ったアザラシの体毛の硬質な感触を所在なく膝に置いた手の内に思い出した。
「この施設はどうしてこんなところに建てられたんでしょうか?前は図書館だったって話ですけど」
と彼女。老人は目を細めた。
「ええ、実はここの裏手には以前県立の中学校と高校がありましてな、この建物はそこの生徒たちの図書室代わりに使われていたらしいんですよ。だから実際に学校の方へ直接通じる裏口もあります。ただ、近くにニュータウンができて人口が流れてしまうと、学校も街に近い方のに合併されてしまったんで、ここも辺鄙な場所に置き去りということになったんです。もともとちゃんと街の中心とされていた場所が、人と街が丸ごと遠くへ移動した結果、相対的に周辺となって誰からも必要とされなくなってしまったというべきでしょうかね。」
なんだか切ないような話だった。勝手に必要とされて、さらにいいものが見つかればすぐに見捨てられる。社会の目まぐるしく移り変わるスピードになんとかついていかなければ、忘れられてしまうのは一瞬なのだ。建物も、人も。私がかつて何年も続けていたインテリア・デザイナーとしての仕事をさっぱりやめてしまったのも、自分では制御しようのないスピードに合わせて競走馬みたいに一生必死で走り続けなくてはならないことに飽き飽きしてしまったからなのかもしれない。私はその仕事を深く愛していたし、人よりずっと優れた才能もあったと自負しているが、今となってはその仕事に未練など全く感じることはないのも事実だ。それじゃあ、彼女は?私は左に座る彼女をこっそり横目で伺ったが、彼女は館長の話に頷きつつコーヒーを飲んでいるばかりで、これといった反応は見せなかった。
そのとき、思い出したように館長が手を叩いて立ち上がった。
「そうそう、標本をお見せしましょうね。現在ではなかなか貴重なもので、残念ながら展示には限定的にしかお出しできないんですが、それはそれは美しい個体です。お見せしたいものほど見せられないというのは、まあ世の中の大抵の物事がそうです。」
彼は机の脇から踏み台を引っ張ってきて、南向きの最も古ぼけた本棚の最上段から手際よく一つの黒い箱を取り出すと、うやうやしい手つきでそれを掲げもって私たちの前に置いた。
「ヨーロッパルリボシカミキリといいます。」
私は最初それを、名の通り星のかけらだと思った。滑らかな黒に塗り込められた箱の中央に留め置かれて、それは本当にシリウスか何かのように青白く強烈な輝きを放っていた。表面温度が高ければ高いほど星は青白く輝くという。それならば、この虫の美麗に縁取られた小さな体躯の内側にはどれだけ爆発的な内燃機関が組み込まれているというのだろう。長く伸びた触覚は均等な青と黒のコントラストを描き、好々爺の居住いの良い背筋のようにまっすぐ引き結ばれた上翅の輪郭が装甲として一種無機質なフォルムを構成しつつも、利き手でない方の手で書いたように辿々しい黒いマダラ模様の存在は内側に留められた肉体の猛々しい盛り上がりをも予感させた。
「綺麗でしょう。現在は環境が変わったせいで希少種になってしまって、今は国境を超えたやり取りも禁止されているので、日本国内で新しく手に入れることはできません。どれ、箱の脇をご覧になってください。」
恐る恐る標本箱を手に取り眺めると、脇にステッカーが貼ってあるのを見つけた。
【Rosalia alpina 11.24.1949 Germany 】
「つまりは現在の規制がない頃に日本にやってきたものです。私たち研究者やマニアは限られた数の標本を国内で取り合っているわけですね、中でもこれは特に体が大きくて色も綺麗なのでものすごく高価です。」
と館長は熱を込めて説明した。
「本当に、なんというか、綺麗」
彼女が苦しそうに呟く。おそらく、自分が心の中に醸造した印象を言葉に変換できないのが悔しいのだろう。もちろん私もそうだった。先に述べたような印象はあの日から長い時間が経過したあと、彼女のことを思い出すためにこの話を語るうえで、まとまりのある言葉に成形しただけにすぎず、そのときは私だって何ひとつ言えないまま、彼女と全く同じ気持ちだった。
「そう、素晴らしい瑠璃色でしょう。ルリボシカミキリ属の体色は大抵もっと鮮やかなのですが、私はこの少し白みがかったヨーロッパのが特に好きです。一点の曇りもない空を見上げるとどうしてかむしろひどく不安になってしまうように、私にはあまりに淀みのない色をした虫をつい恐ろしく思うのです。その点こいつはいい。野焼きの煙が昇る冬晴れの空みたいだ。」
「確かに原色だと少し怖いわ。実際カエルとか魚とか、そういうのは大抵毒を持っているもの。」
「いい着眼点ですね。自然界では警戒色といって、毒を持っている生き物は捕食されないように自分が毒を持っていることを色でアピールすることが多い。ただ言い添えておくなら、ルリボシカミキリが毒を持っていることはありません。自然にいたら少しびっくりするでしょうがね、何より感激しますよ。」
私たちはほとんど同時にカップを空けた。もう少し飲みたいと思っていると、館長は何も言わずに私たちのカップへコーヒーを注いでくれた。芳醇な香りがまた部屋中に広がる。そのとき私は不意にポットを倒して標本が台無しになってしまったらどうしようと無意味な不安に駆られた。しかし館長はそんなこと全く意に介していないように見えた。
「悲しいことにですね、彼らの羽は死んでしばらく太陽の光を浴びると地味な錆色に変わってしまうんです。標本にすれば別ですが、本来この色は彼らが生きているときにだけ陽の光のもとに輝くのです。言うなれば、これは生命の色です。それを死してなお標本として留めおいているのは歪なことかもしれませんがね。」
「色とともに生き、色とともに死ぬ。」
彼女が嘆息混じりにうっとりと言った。
「私もそうだったらいいのに。最後まで美しい姿のまま生きられたら。その美は永遠でなくてもいいわ。ただ私の命の限り燃えていてくれたらいい。」
「死んだあとは美しくなくていいのですか?例えば標本として歪ながら輝き続けるこいつのように。」
「ええ。むしろ、私以外の人に私の美しさを操られるなんて嫌だわ。死んだら、今までの分めいっぱい醜くなって、誰からも忘れられておしまい。醜い姿で生きるなんて、そんなの死んだ方がずっとましよ。」
彼女は極めて優雅に、しかし微かに吐き捨てるような調子を滲ませて言った。私にはそれが彼女の過去の何かに向けられた言葉のように思えたが、具体的には分からなかった。
「それでは、私はどうでしょう。この大きな顎も、顔中の皺も、ひん曲がった背骨も、私は生まれてこの方自分のことを美しいなんて思ったこともありませんが、それでもおおよそ幸福です。こんなに美しいものばかりに囲まれているんだから、自分の中にもきっと美は息づいているのだと、そう思うので十分です。」
館長の口調は苛立つようでなく、それでいて諭すようでもなく、ただ純粋に幸せそうだった。しかし彼女はきっぱりと言った。端的に、何ひとつの反論も許さないほどきっぱりと。
「それはあなたが男だからよ。女は、自分で自分を美しいと思えなければ、その瞬間に少しだけ死ぬの。」
彼女のコーヒーカップには口紅がほんの少しだけ付着し、新雪へ不意に滲む血痕のようだった。彼女はどこまでも淡々として見えたが、意識だけがどこか遠くの時間に浮遊しているように視線だけが微かに虚ろだった。
「昨日よりも皺がひとつ増えた、まつ毛が下がった、体重が100g増えた、そんな馬鹿みたいな恐怖心の積み重ねでできた致命的な絶望の城は、いつの間にか女の頭上に聳えて、徐々に女を押し潰そうとする。そのような闘争の果てに辛うじて保たれた女の美しさを男は追い求め、欲望をもってある日突然掠めとるのよ。綺麗な虫を標本にして、価値をつけて、取引するみたいに。」
館長は笑顔を崩さぬまま、彼女の話をゆっくり頷いて聴いていた。
私はこれまで見た事のない彼女の冷徹な剣幕に気圧されながら、その主張のいくつかの点で同意し、いくつかの点に疑問をもった。そしてその少なからず意固地な考え方の根っこは、きっと彼女が大学をやめてしまったことと何か関係があるのかもしれないと思った。彼女が口をつぐんで、しばらく部屋は静かだった。鳥の声も、木々のざわめきさえ聞こえない、とても穏やかな午後だった。
続く
【今日の一曲】