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1/31 地元の隣町について①

 

うゆです。

1/31のブログということでいかがでしょうか。難しいかもしれませんが、そうあってほしいと思います。

 

 

今回は地元の最寄の隣町について話します。散歩しながら歴史や文化、街並みについて調べたり考えたりしたことをまとめました。地元がバレてしまいますね。

 

 

 

 

大学から帰る途中のことだった。考えごとをしていたら電車を実家の最寄り駅から一駅分乗り過ごしてしまったので仕方なしに降りることになった。『桃木谷/とおごや』という名前の駅である。しばしば県内でも難読地名のひとつとしてあげられることで有名な場所だが、それを除けば取り立てて目立った特徴のないつまらない街だ。「東京駅まで乗り換えなしで50分」というのがこの土地の不動産屋が決まって用いる売り文句である。しかし実際のところは東京駅までの快速電車なんて二時間に一本しかこないし、乗換案内アプリを見ると所要時間が61分と表示される始末で、そこを売り込む精一杯の利点すらも嘘に塗り固められているというのは実に物悲しく感じた。聞いたところによるとかつて桃木谷にはその利便性をフィーチャーしたニュータウン計画も持ち上がっていたらしいのだが、登記関係のゴタゴタでそれもあっという間に頓挫し、今となってはやくざな不動産業者が建てるだけ建てた計画性のけの字もない所有者不明の建物群だけが、町外れにひっそりと残されているらしい。

 

 

私は生まれてこの方桃木谷駅で降りたことが一度としてなかった。そもそも自分の最寄り駅より下った方向にあるベッドタウンをわざわざ訪れてみる必要なんてこの世のどこにもないのだし、あえてそこを訪れてやらないことで、私はその街の悲しさ、卑小さに対して何らかのプロテストを行っているつもりでいたのかもしれない。しかしせっかくふるさとの隣にある駅なのに、行きもせずして嫌いでい続けるというのはなんとなく残念な気もして、私はこの機会に桃木谷駅で降りてみることにした。それでもなんのプライドだろうか、間違ってもその街の人間だとは誤解されないよう物珍しげに周りをキョロキョロ見回したりしてみながら。

 

 

「桃木谷」という地名が示しているとおりそこは街全体が緩やかな谷のような地形になっている。ただ高山が存在しないことで知られるこの県には珍しいことではないのだが、谷といっても峻厳な山々に囲まれた鋭く深いものではなく、むしろ緩やかな高まりの中に微妙に落ち込んだ窪地のような形状に近いものだ。当然地方都市によくあるような街を取り囲む山の稜線のシルエットは見当たらない。街全体に広がって体力を少しずつ、しかし確実に奪ってくる微妙な傾斜に沿って、つまらない建物がまちまちに並び立っている景色がどこまでも続いているばかりである。

 

 

駅前の小さいロータリーの中心には、裸の男女が片手を繋ぎもう片方の手を空に掲げて、各々の掌に二羽の鳩を戴いたオブジェが立って、緑青(ろくしょう)に覆われた毒々しい色を胡乱なパワーとして町中に放っているようだった。駐車禁止の張り紙を嘲笑うようにして違法駐輪の自転車が倒れたり傾いたりしながらずらりと並んで、その脇で汚らしい身なりをした老人が3人、座り込んで時折下品な笑い声を立てながらワンカップの酒を飲みかわしていた。駅の階段をおりた左側にはマクドナルド。独特の油臭さをこちらまで漂わせてくる。その隣に学習塾、地方銀行、また学習塾、美容室が続き、小さな横断歩道を挟んで花屋にブティック、「なか卯」、「丼丸」。目抜き通りからロータリーに入る交差点は左右一車線ずつである。その横断歩道を挟んですすけた看板の絶妙に垢抜けないコンビニが一軒、鈍色の光で街路をぼんやりと明るませていた。

 

 

私はそこでジャスミン茶とシャリもにグミを購入した。レジを担当した「ジラティワット」という名前の外国人店員はシャリもにグミを一瞥して「おいしいですよね」というように顔をあげてニッと笑った。

 

 

 

調べたところによると、「桃木谷」という地名はかつての藩主がその土地に桃の木の栽培を推奨したことが由来なのだそうだ。水はけがよく、緩やかな谷地のおかげで強い風雨から守られた土地は、作物としてかなりデリケートな特徴をもつ桃の栽培に明確に適していたのである。その事業が文字通り身を結ぶと、桃木谷の街は桃を中心とした青果事業で繁栄し、一時は江戸幕府直轄の農地として、国家規模の期待をかけられたこともあったという。江戸からは遠く、あらゆる主要街道のコースからもまるきり外れているのにも関わらず、桃木谷の街は目を見張るような発展を遂げ、そこに立ち並ぶようになった大きな屋敷は羨望とやっかみをこめて「桃御殿」と呼ばれるようになった。またつまらないものの中から価値の高いものが不意に生まれるという意味のことわざ「乞食の桃の蔵構え」がこの街の発祥だとする説もある。こうした繁栄があって、桃の栽培事業を進めた藩主・尾賀宋陰(おがそういん)は一時には幕府おつきの農業大臣に抜擢され、全国を駆け回って青果栽培のノウハウを国中に広めた偉人として現在でもよく知られている。

 

 

女は錦を着て毎日違う男と踊った。道には桃の果実が散乱し、常に甘い匂いを発していた

*寺山市郷土文化会『寺山郷土史 第三巻』寺山市郷土文化会、1988年、407頁。

 

 

私は駅前を離れて目抜き通りを下り、歯医者や美容室、学習塾が林立して私には驚くほど用のない一帯を抜け、静かな住宅街に入った。時刻は午後8時。あたりはすっかり夜の帳に包まれ、それだけ異様に真新しい街灯が無影灯のように非生物的な白い光を暗い街路に投げかけていた。

 

 

いざ歩いてみるとなるほど谷状の地形はなんとなく感じられる。険しい坂道はそれほどない、というより他の街に比べるとずっと少ないくらいなのだが、一歩踏み出す事に傾斜地特有の下腹への圧迫感が感じられ、それが呼吸のリズムを微妙に乱す不快感として全身に少しずつ蓄積されていくのだった。

 

 

ちょうど住宅街の一ブロックの切れ目にあたるくらいの場所に小ぶりの神社があった。低層マンションやアパートに囲まれた暗がりにひっそりと佇む、鳥居と社殿がひとつずつちんまりと配置されている程度の、大変侘しい社である。社殿の正面には黒板消しクリーナーくらいの大きさのカビた賽銭箱が置かれ、その横にはいつのものかも分からない濁った水の張られた湯のみが申し訳程度に備えられていた。財布から五円玉を出して賽銭箱に入れ、鈴尾をふって鈴を鳴らそうとしたが、壊れているのか縄のキュウキュウと擦れる音が聞こえただけに終わった。社殿の柱に鼻を近づけて匂いを嗅ぐと木材の重く甘ったるいような匂いが微かに立って鼻の奥に渦を巻いた。雨が近いのかもしれない。

 

 

甘い果実もやがては腐敗するときがくる。栄華の火もいつか消える。そして桃木谷の街も、数多ある盛者必衰の法則に抗うことはできず、全盛期からそれほど時を経ずして急速な衰退の一途を辿ることになった。

 

 

問題は災害でもなければ戦争でもなかった。桃木谷の街をその根元から確実に蝕んでいたのは、皮肉なことにかつてそこを繁栄に導いたはずの土壌だったのだ。

 

 

当初は藩主である尾賀の監督のもと、当時では驚くべき水準の農法が採用されていたのだったが、尾賀が幕府の仕事で藩を離れるようになって代わりに監督役として派遣された幕府の小役人は、かつての方針をむりやり一転させ、人々へ環境のことを少しも顧みない強引な農業を行わせるようになった。当時の街の商人が詠んだ恨み節には、その頃の収奪がいかに理不尽で身勝手なものであったかを如実に物語っている。

 

 

桃咲けど 土は泣く

水を絞られ 枝は折れ

御用の手は白く

畑は黒くなるばかり

*箕輪仙吉「江戸時代における青果産業の衰退:町人文化の視点から」東京大学産業史研究会編著『平民文化のポリフォニー』東京大学出版会、2007年、198頁。

 

役人は収穫量増加のため人々により長時間の労働を強制し、毎日各人の収穫量を帳簿にひとつのズレもなく記録する仕組みをつくった。ノルマに達しない者があれば給料の削減や重労働の強制など厳しい罰を与え、暴力がふるわれることも珍しいことではなかった。そのくせ収穫物の租税割合は急激に増加し、人々の就労意欲はみるみるうちに減退した。

 

 

そして、こうして着実に進行した桃木谷の青果産業の衰退に終止符を打った事実こそが、土壌の荒痩化というわけだった。役人が強引に推し進めた二期作によって土地の栄養は急速に失われ、当初は一応設けられていた休耕地も最終的には常に稼働させ続けたことで桃木谷は完全に不作地と化したのだった。かつては少年の頭のように丸く中身のぎっしりと詰まっていた実も徐々にやせ細ってついに古ぼけた鞠のようになり、人が減って放棄される畑が増えたことでそれもほとんど世話をされることがなくなっていった。当時の桃木谷には、完熟して地面に落ちた果実が破裂して放つ強烈な腐臭と芳香が常に漂い、流れ出た果汁を啜ろうとする蝿がそこらじゅうを飛び回っていたのだという。

 

 

時間がないので今回はとりあえずこの辺で。