我思「う ゆ」えに我あり。
うゆです。
陽も半ば昇りきった頃にやや遅めの起床。最近は「エーデルワイス」のチャイムが目覚ましである。これは愛媛県の大瀬地区で録音した音源で、現地で毎朝6時になると寄合所のチャイムから放送されるものだ。
目覚ましの音源選びは難しい。プリセットの機械的な音は一日の始まりに聴くにしてはあまりにセンスがないし、かといってお気に入りの音源を設定しようものなら、それは少しづつ目覚めの不快な記憶と結びついて体に刻まれ、好きだったころの感覚はどこへやら、いつの間にか嫌いな音楽として記憶されるようになってしまう。それならばせめて穏やかで普遍的な音楽をとクラシックを設定したところで無駄なことである。激烈な刺激とともに脳内で古今東西の作曲家たちが跳梁跋扈、ベートーヴェンがカスタネットをしっちゃかめっちゃかに打ち鳴らし、バッハはクルンクルンの髪を跳ねさせてラッパを吹かす。アメトーク風のスタジオで「マジャール人あるある」を披露するバルトーク、スターリンのお腹を叩くショスタコーヴィチの隣でモーツァルトがチェーンソーを唸らせながらマリー・アントワネットを追いかけ回している。私はバッハの『イギリス組曲』やドビュッシーの「月の光」をしばらく聴けなくなってしまった。
その後も好きなジャニーズアイドル(SixTONESの松村北斗 )の囁き声を設定してみたり、振り切ってあやまんJAPANの「ぽいぽいぽいぽぽいぽいぽぴー」(余談だが、あやまんJAPANはこの曲のボサノヴァ・ヴァージョンとして「cafe de poipoi」という曲もつくっている。ぜひ視聴されたし)を設定してみたりしたが、いずれもイライラして終わった。
結局どんな音楽を目覚ましにしたところで、そこに受動的な起床という最悪のイヴェントが奥歯のホウレンソウみたいに挟まり続けている限り、その不快感が消えることはないのだ。

「スヌーズ」には「うたた寝」という意味がある。
それで私は音楽の如何に期待することをやめた。その代わりに、「目覚め」という体験そのもののイメージを少しでも爽快なものだと体に錯覚させるための音源を探すことにした。
具体的にいえば、ユーミンも「やさしい気持ちで目覚めた朝は 大人になっても 奇跡は起こるよ」と歌っている通り、生涯で記憶しているいくつかの素晴らしい目覚めを思い起こし、そのときのを思い出せるようなトリガーとなりうるものを探したのだ。
その結果選びとったのが例の「エーデルワイス」のチャイムだった。私は旅先の朝を愛するタイプだ。その目覚めの先に広がる一日には暇と心地のよい忙しさとが同じだけ待ち受けているから。ゆったり散歩を楽しんでもいいし、風呂に入ってもいい。朝食をすっとばして二度寝に興じるのもアリだが、さっさと準備してお出かけを楽しむのも悪くない選択だ。たくさんの選択肢を好きなように選べるスケジュールのビュッフェ。旅先の朝という言葉にはそんな素晴らしい高揚感を思い起こさせるような純朴な期待が秘められている。日常生活の目覚めがいくらストレスなものであろうとその期待には到底叶わないだろう。そう思ったから愛媛県の大瀬地区へ再度赴き、そこで放送されるチャイムを録音、目覚まし音源として設定することにした。障子を清浄な白い光で輝かせる朝の日差し、立ち上がって障子戸を開くと遍く豊かな色彩に満たされた山間の集落が私を迎える。楔形の列をなして高い空を行く鳥の群れが穏やかな羽ばたきを見せると、それに応えるようにどこかで誰かの挨拶する声が聞こえる─。
今のところはそれで上手くいっている。私はまだチャイムの音を不快だと思ったことはないし、目覚めもなかなか良好だ。
ういなさん生誕
フランス語では蝶と蛾を区別しない。
みおさん生誕。
「parade」の語源は「準備する」という意味のラテン語で、これは「prepare」の語源でもある。
クラウドファンディング。
グラハム・ベルが電話を発明するために村人から寄付を募ったのがクラウドファンディングの先駆けとされている。(なお、これは私が今考えた嘘雑学。)