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9/26 レコードと詩について

うゆです。

小学校卒業まで歯がなかったので給食を食べ終わるのはいつも一番でした。

 

 

 

ネタのひとつもないしょーもない毎日を送っているので、期末レポートでレコードと詩について書いたものをここに掲載します。

 

 

 

ひらかれる身体と心、詩における握手の試み

 

 

春の終わりにレコードプレーヤーを購入した。友人に薦められたモデルの製品で、シンプルなボディに性能も最低限、レコードの入門機としてはうってつけといった具合のものだった。定価は18000円ほどと、アルバイトを休みがちな学生である私にとっては決して気安い出費ではなかったものの、バッケージのずっしりと質量の詰まった感覚を引き受けて歩く帰り道の足取りには、確かな充溢の感覚があった。長い時間を経てようやく地球への帰還を果たした宇宙飛行士もちょうどこんな風な感覚なのだろうかと、私は暮れかけた空の上端に透ける藍色を見据えながら恥ずかしげもなく思った。

 

 

ここのところ心身の分離したような執拗な浮遊感に悩まされることが多かった。精神だけが内側に収縮し、身体の硬い殻から無音のまま剥離してしまったような感覚。水底に横たわってゆらめく水面を見あげているときのように、物事の一切から現実感が失われ、くぐもった知覚を介してようやく何かとつながっている。友人の何人かとは連絡を絶ってしまったし、一年間続けてきたメイドカフェでの仕事も休職してしまった。とにかく自分がこの世界の何もかもから取り残されてしまったように思い、均質な時間の矢印をなんとか手繰り寄せて生きていくのが精一杯という状態だった。それが怠情によるものなのか、あるいはさらに深刻な自閉によるものなのか私には測りかねたが、身体の奥底に沈み込んでしまった心を再び世界の変化の中に浮上させるために、何か質実な身体感覚を改めて掴みとらなければならないことはわかっていた。

 

 

違ふ!……立て!相ぐ時つ風の流れの中に!

砕け、我が身体、この思ひの輪を!

飲め、わが胸、この風の誕生を!

一陣の風が海から立ちのぼり、私に魂を返す……潮の力!

波に走り寄り、飛沫を揚げて蘇らう!!①

 

 

「海辺の墓地」において、精神の内奥に深く入り込んだ詩人は、正中した太陽の持つ生の極限における停止と、地中に眠る死者の持つ運動の完遂状態における停止の誘惑とに捉えられ、外界のあらゆる変化を拒絶しようとする。無限に引き伸ばされた時間の線上でアキレスはに追い付かず、際限なく分節化された時間の中で失は止まっている。しかし、次節において俄に吹き起こった一陣の風によって詩人は身体を取り戻し、再び生命として果断のない変化の全てへ立ち向かってゆくことを決意するのだ。私は自分に風が吹き起こるのを待ち望んでいた、あるいは探し決めていた。

 

 

次の日の朝、家からたった5分ばかり歩いたところの、川べりの湾曲した道沿いに構える小さなレコード店を訪れた。店には知らない言語の知らない音楽がかかっている。本を手に入れるのにも大手チェーンのリサイクルショップくらいしか手段のない街に、いまだにレコードなぞを売っている店があるということに私はこれまで思い至りもしなかったが、その店は店主一人だけで細々とではあるが確かに、級やかな変化の中を生き延びていてくれたようだった。

 

 

国やジャンル、レーベルごとに整理され、ラックの中にぎっしりと重なって眠る音楽。その一つ一つに付された店名入りの黄色いラベルには几帳面な字でアルバムのタイトルが記されている。私は指先でそれらを一枚一枚めくりながら、繰り返し目にみる鮮やかな黄色いラベルの点滅に導かれるようにして、ふと“treat”という一つの英単語を想起した。“treat”、初めてその単語を知ったとき、高校受験用の初歩的な参考書には「~を扱う」とだけ説明されていて、当時中学生だった私はハロウィーンのTric or Treat”という定型句を思い出しながら、「お菓子をくれなきゃ扱っちゃうぞ」という全くもって頓珍漢な覚え方をしたものだった。そのときは他の有象無象の言葉と同様、“treat”も曖昧で使い所も分からない数多ある記号の一つに過ぎないものとして思われたが、それから数年が経った大学受験のタイミングで、私は再びその単語に出会い直すことになる。そして今度は「~をもてなす」「~を治療する」という意味を強調された語のイメージが、むしろ目的語に対してひらかれたもの、両の手のひらを見せるようなものとして自分の中に受け止められ、言葉自体がとたんに黄金の輝きを帯び始めるのを感じた。一方から他方への、愛情深い向き合い方がその単語にはよく表れているようだ。溺れている小さな動物を掬い上げる椀型に組まれた両手、膝もとに寝そべる我が子の髪を撫でる母親の手つき、あるいは止まった時計をオーバーホールする職人の指先。そのようにして思い浮かべられる、人ともの、人と人との交わりは身体、それも手を媒介として行われている。そういえば、テニスをしていた頃はボールを足で蹴るとコーチや先輩にひどく叱られたものだった。手を意識的に用いて他者と関係を持つこと、ひょっとしたらそのイメージにこそ今の“treat”という語の丁重さの精神は宿っているのかもしれない。実際、ドイツ語においては“behandeln””“Hand”を一つの語源とする言葉として捉えられる。

 

 

そして、それから何年も経ったあとで、私が日常ではほとんど使ったことのないその英単語を不意に思い出したのには、店のラックに収納されたレコード盤の一つ一つが店主によって至極丁重に扱われていることを、そこに付されたラベルの清潔さから確に近い実感として掴みとったからだったのだろう。

 

 

少なくとも、そこに陳列された音楽には、レコード盤という製品の形をとった身体がある。身体がある以上、彼らは「そこ」に留まることを余儀なくされるし、いずれ物質的に朽ちてしまう運命にある。だから、音楽の持ち主は、それらが十分な機能をできるだけ長く保てるよう、手間暇をかけて“treat”しなければならない。高温多湿の場所を避けたり、無理な力が加わらないよう余裕をもって収納したりすることは当然必要だろうし、時にはパッケージから取り出して埃を拭き取ってやることも必要だろう。音楽を聴くときは、パッケージから円盤を出して、プレーヤーに設置し、それから慎重に針を落とす。その過程の一つ一つには手先を上手に用いなければならない。ひどく面倒で、何から何までがとても便利とは言えない文化ではあるが、しかし、そのようにして結ばれた身体的な関係性は、やがて音楽と精神という不定形の観念的な結びつきをより強固なものにし、発生する印象がいかに瞑想的で、内面的なものであったとしても、その根本には音楽を知覚する身体の存在があることを忘れずにいられるのだ。

 

 

今や音楽はヴァーチャルな空間の中に電子信号として溶かされ、物質的な輪郭を失ったものとしてある。そのおかげで私たちは場所や時間に関わらず常に音楽へ接続することができる一方、もはやそれを身体的な体験として感覚することができなくなってしまったのも事実だろう。それに、ワイヤレスイヤホンの装着性と利便性は年々格段に向上し、長く装着しているとそれを身体の一部としてすら認識できるようになった。そして、脳に楔となって深く差し込まれたイヤホンによって、音楽は耳を介することなく、直接脳に醤き渡るようになった。電子信号と脳とは一体となり、もはやその間にあったはずの身体が透明なものとなってしまう。

 

 

ひょっとしたら、近頃私が感じていたあの原因不明の奇妙な浮遊感は、そのようにして徐々に薄らいでいった身体の所在を精神がとうとう見失ってしまったためではなかったか。

 

 

結局そこで3枚のレコードを買った。バレンボイムによるリストの小品集に、サイモンアンドガーファンクルのベスト盤、そして映画『愛と裏しみのボレロ』のサウンドトラックである。大きなビニール袋を提げて歩くのは楽しかった。

 

 

大学に入学して間もないころ、あるバレエダンサーが「ボレロ」を踊る動画を得然目にする機会があった。それから動画の正体はしばらく分からなかったものの、それにどういうわけか強く惹きつけられるようであった私は、後になって改めて調べてみる中で、彼がアルゼンチン出身で、ジョルジュ・ドンという名前であり、クロード・ルルーシュの映画にも出演していることを知った。『愛と哀しみのボレロ』である。ジョルジュ・ドンが「ボレロ」の踊りを披露するのは、完全版にして288分にわたる映画のクライマックスだ。円形のステージの上で、観客のじっと見つめる中悠々と、しかし限りなく繊細に繰り出される身体表現は圧巻の一言である。

 

 

ラヴェルの「ボレロ」という曲自体 は非常に特異な進行を持っている。何度も繰り返される同一の拍子の中で、終わりに向けて徐々に音楽が高まっていき、それが完全に運動の頂へ達するとき、盛大な鼓動をひとつ打ってオーケストラは終了する。同じ拍子の中に、確かに異なるリズムとしての変化があり、それ自体がまるで回するレコード盤のように、あるいは繰り返される波のトロコイド曲線のように、円環であって円環でない運動の中に思わず身をわすような高揚が生まれる。

 

 

私は当の「ボレロ」を収録したレコードをプレーヤーにかけ、やおら始まる回転運動にじっと目を凝らした。内蔵された機構が運動し、ターンテーブルを回転させる。盤上に落ちた針は溝に刻まれた微細な形状を素直にたどり、そこに発生した小さな振動をスピーカーが巨大に増幅させる。実に単純な仕掛けだ。しかし、私には今思いている音楽がいかにして私の近くにまで届いたのか、その仕掛けが分かっているというただそれだけのことが嬉しかった。少なくとも、そのおかげで私は音楽を感覚する主体としての自分の身体をこれ以上見失わなくてすむ。

 

 

開け放した窓からは、午後の微風に乗って県下最大の国道を行く熟走族のエンジン音やら国粋主義の街宣車のがなり声やらが飛び込んでくるが、それらはノイズではなくむしろ私と音楽との身体的な距離を示すものとして、または音楽が空間に鳴り響いていて、その中に私も身体によってあることを突きつけるものとしてあった。円盤は周回し、「ボレロ」も周回した。オーケストラは高まり、張り詰め、極限を目指す。目の前で訥々と進行する静かな円運動のさなかに、私は同じく円運動によって詩を書こうと試み続けたあるひとりの詩人に思いを巡らせる。パウル・ツェランである。

 

 

パウル・ツェランが詩において一貫していた「記名」の試みは、すなわち「呼名」の試みであり、大量虐殺によって個としての死すらをも許されなかった同胞を再び現在の記憶に呼び起こす/provoke ことを一つの目的としていた。誰でもないものになってしまった彼らは、やはり誰のものでもない、つまりは誰のものでもある名前を与えられることによって輪郭を取り戻し、再び個として召喚され、詩とともに未来の読者へと向かう。文字通り黒土となってしまったユダヤ人たちの眠る時間の深層に犂をふるい、未来のために詩を書くというツェランの繰り返される営みは、詩という一つの子午線を基準に、同胞と自分、自分と殺人者とを結びつけるドイツ語という言語を中心として回り続ける時計の針の運動に重なるものであり、逆行することなく確かな方向を志向するものだった。しかしそれは決して直線的に、明快さをもって行われうるものではない。

 

 

というのも、詩は無時間のものではないからです。詩は確かに永遠性を必要とします。しかし、詩はその永達性に時間を通り抜けて達しようとします。時間を通り抜けてであって、時を飛び越えてではありません。②

 

 

つまり、あくまでも周回の試みとして行われる詩作の繰り返しは、円周上を愚直にたどり続ける迂回なのだ。忘却がいかに恐ろしいスピードで迫りこようと、詩作は変わらない遅純な歩みを、一つ一つ確かめながら乗り越えていくしかないのだから。その意味で、詩人にとっての生成とはまさしく投壜の試みであるというほかない。恐るべき忘却の波に漕ぎ出で、誰の目にも触れられないことへの恐怖の充満した濃密な暗闇の中で、それでも後世の誰かに届くことを願って生成物を放り投げる絶望的な試み。「みずからの声とみずからの沈黙をたずさえてひとつの道を氷める死すべき運命を負った一回限りの霊的存在」③として、その切実さにおいては、詩が黄金の基盤、すなわち高い名声を受けられる期待などない。むしろ、詩は質実なものであることを余儀なくされ、美しい容貌をふりまき世間の目を惹くしらえ物とは遠く隔てられてある。誰にも願みられず、賞賛も受けず、その孤独の中で、詩はたった一つ、いつかどこかにいる顔も名前も知らぬ読者の延ばした手を目指して手を差し伸べる。詩の生成は誰かに読まれて初めて一つの段階を完了させる。誰かに届くべきである、いや届かなければならない、その通信は手である。

 

 

握手はあらゆる場所にあふれている。人と人、人ともの、ひらかれた心が質実な愛情によって何かと結びつくとき、それは広義の握手であると言えよう。また、それ自体が円環構造にもなった“treat”という語が示す手を媒介とした結びつきは、その偏在性と連鎖性を一層明白にし、私たちが行う手仕事の方向性を指し示すものである。相手のために心を尽くす。手を差し伸べ、引き揚げる、あるいは引き揚げられる。思えば、深く潜航し、自閉的になった私の意識を再び世界へとサルベージしてくれたのは、誰かが音楽という形で差し伸べた手であり、そしてそれを慈しみ深く扱った店主の手でもあった。本来一対一のものであるはずの握手は、ひらかれたもう一方の手によってまた別の握手へと連鎖し、広く深く結ばれていく。詩も例外ではない。例えば詩人の未発表原稿が、詩人亡きあとも彼の親密な人々によって発見され、諳んじられ、出版、翻訳といった仕事を経て広がっていく、そのプロセスは詩人の決死の投壜をなんとか繋ぎ止め、それが向かうべき場所へ無事に至るための、繰り返す波のようにして行われる手の連鎖なのだ。

 

 

「ボレロ」は高まる。オーケストラは最高潮に至り、運動の極限で激烈に胸を打つ。無数の周回運動を繰り返した果てに、針はようやく中心に到達した。

 

 

【引用】

①ポール・ヴァレリー著、中井久夫訳『若きパルク/魅惑』みすず書房、2003年、162頁参照。

②パウル・ツェラン著、飯吉光夫訳「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」 『パウル・ツェラン詩文集』白水社、2012年、102頁参照。

③パウル・ツェラン著、飯吉光夫訳「ハンス・ベンダーへの手紙」 『パウル・ツェラン詩文集』白水社、2012年、166頁参照。

 

 

【ジョルジュ・ドンのボレロ】

 

 

【今日の一曲】

 

ちなみに同じアルバムには、下積み時代のみやぞんがフリチンで酒を片手にタバコをポイ捨てする「空耳アワー」作品、「社会道徳がゼロ」の元ネタが収録されています。