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6/13 ①現象学的エッホエッホ「アンパンマンは粒あんって伝えなきゃいけない理由を考えなきゃ」

今日、白い服を着た不審な女から、アンパンマンが粒あんだと伝えられた。

 

 

 

 

 

 

 

うゆです。道を散歩していて、不意に頭にこの一文が思い浮かんだとき、思考は流れるように「なぜ彼女はアンパンマンが粒あんだと伝えなければならなかったのだろう」という問いに漂着しました。そして、その問いにまつわる答えをいろいろと探しあぐねているうちに、文章はそれ自身で歪な成長を遂げ、私には予想もつかなかった結論を導き出しました。1万3000字くらいになってしまったので、3節に分けたいと思います。

 

 

この思索は内面世界についての極めて深慮で複雑な問題を孕んでいます。すなわち、「私たちは真実というものを何に基づいて判断しているのだろう」という問いかけです。たくさんの人がそれを正しいと断言しているから?それを信じないことには世界がうまく回ることがないから?どれももっともらしい答えだと思います。しかし、私にはそれらが正鵠を射ているとは決して言い切ることができません。なぜなら、私は私が精神の最たる外殻としての身体によって認識している、あなた方を含むこの外的な世界すらも本当のものだとは考えていないからです。

 

 

私のメイドネームの由来にもなった「我思う ゆえに我あり」というルネ・デカルトの至言は、その懐疑を最も簡潔に表現した言葉です。つまり、この世界の全て、例えば家族とか、愛とか、カップ焼きそばとか、オカピとか、スピードとか、そういったものが本当に世界に存在しているのかどうかというのは疑い出すとキリがありませんが、そのようにしてあらゆるものを疑い、否定しつづけていった最奥に、それらを疑っている主体としての「私自身」の存在だけが、否定されることができずに残存するというのです。

 

 

これはフッサールらの唱えた「現象学的還元」という思想にも通底する考え方です。フッサールは、世界それ自体を疑うことはできるが、一方では、世界を認識している私自身の考えというのは疑うことができないのだといいます。例えば、「リンゴが赤い」と言ったとき、その状態自体は十分疑う余地のあるものです。本当にリンゴは赤いのか、君の見ている赤と私の見ている赤は違うのではないか、そもそもそれはリンゴなのか、そういった懐疑が際限なく発生しえるわけです。しかし、その中で一つだけ誰にも否定できないものがあります。それは「リンゴが赤い」と言った(思った)その人の心の働きなのです。思った主体である私を疑うことは、同時に疑っている主体である私自身をも疑うことになってしまう(疑いのドッグファイト状態になる)ので、疑う試み自体が成立しなくなってしまうからです。

 

 

現象学では、この心の働き(ノエシス:「リンゴが赤い」と考えたこと)について詳しく分析していくために、それ以外の要素である世界のあり方(ノエマ:「リンゴが赤い」という状態)を一旦忘れてしまうこと、すなわちエポケーを前提において話を進めていきます。つまり、デカルトにしろ現象学にしろ、大切なのは、心の動きと、その主体となる私自身にほかならないのです。

 

 

この文章では、アンパンマンのあんこの種類をきっかけに生じたノエマとノエシスの反転、それによって混迷する懐疑の自己破壊について考えていきます。ただ残念なことに、私は当初、本文をいつも通りの他愛もないブログとして書き始めようとしたのであり、したがってこのテーマは途中から発生したものになります。論旨が一貫していない部分や、誰がどうみてもいきあたりばったりな展開が含まれることを、予めご了承ください。

 

 

 


 

 

今日、白い服を着た不審な女から、アンパンマンが粒あんだと伝えられた。

 

 

中央線特快の最後尾。私はそのいちばん端の席に座り、恥も外聞もなくパソコンを開いて昨晩やり残した現代演劇に関するレポートを必死で仕上げていた。頭の中はその日の夜に差し迫った提出期限のことでいっぱいだ。昨晩は女友達とゴダールのレイトショーを見に行ったせいで帰宅も遅く、レポートもろくに進められなければ睡眠だってとれなかった。一週間の上映といっても長いようで短いものだ。ひとたびチャンスを逃してしまえば、結局その上映には行けないか、最終日に無理やり都合をつけて滑り込みで赴かなくてはならなくなる。『軽蔑』の最後、妻と映画プロデューサーの乗ったスポーツカーがトレーラーの結節点に引っかかって盛大な事故死を遂げるシーンでも、私は映画とは全く関係のないチェーホフとスタニスラフスキーのリアリズム論についてぼうっと考え続けていた。

 

 

列車が中野を出て2.3分経った頃だったろうか、どうも隣の車両が騒がしくなった気がしたので、私は顔を上げ、辺りを見回したが、少なくとも私の周囲に特段変わったような動きはなかった。車内はそれほど混んではおらず、空席こそないが立っている乗客が車両に数人見受けられる程度。向かい側に座ったサラリーマン風の禿げた男は尊大にも両足を大股開きにして眠りこけ、その隣に座った若い女が憎悪に顔を歪めたまま、長いネイルのついた指先で器用にスマホへ何かしらのメッセージを忙しなく打ち込んでいる。彼らの肩越し、車窓に広がるのは青空に輝く車両基地。私は車両基地というものを大変美しい場所だと思っている。JRの徹底的に細分化された時間の中で、そこには牛乳の底に溜まったハチミツみたいな甘い休止符がある。それも決して乱雑に打ち捨てられているわけではない、彼ら車輌は来るべき運動の機会を今か今かと待ち受け、野ざらしになった赤土の平地で、爛々と目を光らせたまま春先の獣のようにその身体を期待の律動で満たしている。

 

 

恐らく、と私は過ぎ去った車両基地の輝きを目の奥に留めながら思う。私は少々疲れすぎているのだ。わけもなく胸騒ぎがするのは大抵心がすり減っているときだと相場は決まっている。そうだ、何か存在しない音が聞こえてくるようならなおさら始末が悪い。このまま無理にレポートを進めていたところで大した内容も書けはしないだろうし。私は目的地に着くまで眠ることにした。パソコンを静かに閉じてトートバッグにしまい、イヤホンを装着する。グールドの奏でるモーツァルトが鼓膜で跳ねて脳に溶ける、素晴らしい午後。隣の女の剥き出しになった足に車窓の流れ去る光と影が映って柔らかく明滅している。カーブ地点に差し掛かった列車が軋む。睡魔が私を捉えた。抗いようもなく引き込まれる眠り。

 

 

…エッホ エッホ エッホ エッホ…

 

 

それは夢ではなかった。そもそも、電車の中で夢を見ることほど難しいことがほかにあろうか?少なくとも、あれほどの情報と変化の洪水にまみれていながら別の物語に逃げ込むことができるほど私は器用な人間ではない。女は─それを女と言うべきなのか、私にはそれすらも定かではなかったが─午後とグールドと車両基地の残像、それから女の脚の明滅、その他もろもろの愛すべきものたちから受け取った幸せな沈黙を紡糸してつくりあげた睡魔のゆりかごに、突然穴を空けるようにして入り込んできた。真空状態になった無意識は無惨にも膨張し、破裂した。私は目を覚ました。言葉を選ばずに言えば、それは不快な目覚めだった。はじめに瞼を開いた一瞬、その一瞬に、私はあの白い服を着た女の姿を確かに見た。しかし、次に瞬きをしたそのあとの世界には、すでにその姿はなかったのだ。それはもう幻のように、跡形もなく。私の眠りを妨げた女は消えてしまった。あの取ってつけたような声の余韻だけを残して。

 

 

そこで私ははじめて車内に私以外の乗客が誰もいなくなっていることに気づいた。大股広げたサラリーマンも、爪の長い女も、あの白く剥き出しになった素晴らしい脚の持ち主も、誰ひとりとしていなかった。がらんとして車内アナウンスばかりの空々しく響く車内に、私は一人ぽつんと座っていた。

 

 

猛烈な不安、みぞおちの奥にぽっかりと穴が空いて、そこから冷たい液体を流し込まれているような気がした。冷房に冷えた額に場違いな脂汗がにじむ。もしかするとこの電車は既に回送列車になってしまったのかもしれない。あるいは、私はまだ夢の中にいるのかもしれない。事態の呑み込めない取り乱した頭でふと昔インターネットの匿名掲示板で読んだ怪談の類を思い出してみたりする。いやいや、そんなはずはない…。頭を振る。一旦冷静になろう。ポケットからスマートフォンを取り出す。時刻は14:50分。寝ようと決めてからまだ10分そこそこしか経っていない。待ち受けにはSNSやその他アプリの通知が4件入っている。友人からのメッセージは一旦無視することにした。私は顔をしかめて立ち上がった。隣の車両にも人がいる気配はない。本当に、一体、何が起こっているんだ?

 

 

意を決した私はトートバッグを肩にかけて隣の車両へ向かった。少なくとも、車内アナウンスと電光掲示板は機能している。急行の長い走行時間とはいえ、あと数分もすれば列車は次の停車駅につくだろう。全てが全くもって正常だった。正常だからこそ、乗客が人っ子一人いなくなってしまったことの説明がどうしてもつかなかった。そもそも彼らは一体どのようにして電車を降りたのだろう。私は歩いて、隣の車両、またその隣の車両と覗いていったが、やはり乗客は誰もいなかった。全くもってなんの感触もないまま、無情にも真実が少しづつ遠ざかっていくのを見つめているだけの静かな失望。ただ、私には一つだけ確信していることがあった。少なくとも、この電車が無事に運行しているという事実は、運転手と車掌が変わらず先頭車両に乗っていることを明らかに意味している。わたしはそれを確かめたいと思った。それが今自分の置かれている説明のつかない事態の真相を知るための手がかりになると思ったし、それ以上に、何より私はひどく心細く、不安だったのだ。東京という大きな都市で生活している中で、突然理由も分からないままひとりぼっちになってしまうことは、情報と視線に酔った人がトイレの個室や雑居ビルの階段のようなひとけのない場所を探し、簡易的なプライベート空間を求めようとするのとは全く違う意味を持っている。それは分離の不安で、自己喪失への恐怖だ。失われてしまったものは、自分の世界における自分以外の全てではなく、本当は自分以外の世界の中の自分一人なのかもしれないのだから。

 

 

ところが、私には実に予想外だったことに、電車は私が先頭車両に到着する前に次の駅へ到着した。よろける私、しかしとにかく、電車は無事に誰かのいる場所へと接続したのだ。私は待ちきれないように急いで電車を降りた。もちろんそこに人はいた。当然のことだ。当然のことが、私には無性に嬉しかった。笑い出さずにはいられなかった。最低の悪夢から覚めたあとの、この世界の全てをどうにかして抱きしめたくてたまらなくなるようなあの感じ。私は前を歩く男の短く刈り込まれた襟足の形を永遠に忘れないだろうと思った。ホームの端では車掌が柱に据え付けられた発車ベルを慣れた手つきで操作している。そうだ、はじめから何もなかったのだ。車内には先程まで乗っていたはずの乗客は誰もおらず、乗っているのは今の駅から乗り込んできた人だけで奇妙に空いてはいたが、腑に落ちない点といえばそれくらいで、もしかしたら、私が今まで現実だと思っていた車内の方が本当は夢の中の出来事だったのかもしれない。私は晴れやかな気持ちでそう思った、というより、そう思うほかなかった。そのときの私はもう充分疲れきっていて、説明のつけようもないことにこれ以上考えをめぐらせるにはいっぱいいっぱいだったのだ。

 

 

 

 

 

 

広告です。

今日の嘘はおやすみ。本文を飛ばして嘘だけ読んでいるそこのお前!m9^._.^)

 

それでも嬉しいよ♡

 

 

もにゅのブログに8/17空けておけと書いてあったので、一応それも告知しておきます。