超絶可愛い女装メイドの居るお店
男の娘カフェ&バー NEWTYPE
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6/12 地雷系は考えない藁である。

うゆです。

ウクレレの推薦で大学に進学しましたが、周りのレベルが高すぎて退学を考えています。

 


 

 

ズボンのファスナーがしめられない。

 

ずっとそう、毎日そうだ。常に私のファスナーは全開だ。多分ボタンをとめた時点で私の中の「着用」のプロセスは完了してしまうので、ファスナーにまでは意識が向かないのだろう。

 

ズボン(最近ではこれをパンツというのだが、馬鹿なのではないだろうか?これでは下着との区別がつかない。ズボンというのがダサいという風潮を作ったそこのお前、私とタイマンのパンツ早着替え対決で雌雄を決しよう。この「パンツ」が果たしてボトムスのことを指すのか、下着のことを指すのか、貴様には到底わかるまいよ。しかし、それを始めたのは貴様なのだ。この愚か者め。)といえば、試着を人間として恥ずかしい行為だと思っているので、服を買うときは基本「ガチャ」だと思っている。なにかひとつズボン(私はこれをズボンと呼ぶ。それが最も誇りに満ちた行為だから。)を買おうとすると、だいたい自分の想定より一回り大きなサイズを購入することになるのだが、それは案の定私にはいささか大きすぎる。そのため、私は次の日に全く同じ店へ赴き、全く同じ商品の一回り小さいサイズを購入し直すのだ。したがって、私が服にかけるお金は通常の2-3倍程度ということになる。家に遊びに来た人に「服いっぱい持ってるね」と言われることも少なくないのだが、そのほとんどは所詮ろくでもないガチャのハズレキャラのゴミ捨て場にすぎない。ゲームでたとえモンスターをたくさん所持していようと、強いボスを倒せるSSRが揃っていないと意味がないのだ。私のクローゼットの中には各シーズンにつきSSRがひとつかふたつくらいしか入っていない。こんなに服がたくさんあるのにどうして着られる服が全くないのか自分でも不思議に思うが、実際にそのようになってしまうのだ。逆に言えば、着回しできる服装が3セットくらいあればその季節は乗り切れると思っている。毎日顔を合わせるような人がいたら少し恥ずかしいが、幸か不幸かそんなに親密な人は私の周りにはおらず、何食わぬ顔をして3日くらい同じ服を着続けていたりする。

 

とにかく気にいった服以外着たくない。何かちょっとしっくりこなかったり、人に見られたような気がするとその服は二度と着なくなってしまう。これは昔からそうだった。着たい服は狭量で頑固な身体感覚で選ぶのが常で、あわせる服を見つけるのが面倒だったので、中高生時代は夏休みなどでも大抵制服を着て塾や部活などの用事を済ませていた。制服というのは没個性の外套であり、その人が外面に纏うパーソナリティの総合的な情報量の絶対値を著しく減らしてくれる。制服を着た私は匿名の象徴化された「高校生」という文化の被殻に包まれ、誰の目にも留まらないまま比較的自由に外をうろつくことができた。しかし大学生になって制服が着られなくなってしまうと、私の生活は一変して、自分の納得のいく服装を見つける冒険、あるいは暗く深く絡まりあったファッションの密林との格闘一辺倒になってしまった。

 

私は「コンテクスト」に頼ることにした。

 

つまり、流行りとか、系統とか、そういった社会的な文脈のハッキリした服を身に纏うことによって、その内側にいる私の姿を覆い隠し、世間の目から身を隠そうと考えたのだ。例えば地雷系の服なんかがそうだ。地雷系の服は、装飾が派手だったり、印象の強いイラストが大きくプリントされていたりするので、その人のセンスに関係なく服1枚でスタイルとして成立させることができる。レイヤードとか、色使いとか、そういった煩雑なお約束を一切考慮する必要なしに、地雷系のTシャツ1枚着れば私は「そういうファッションの人」として世間に認知され、「私」でなく「地雷系」としてのコンテクストの束の中に埋もれることができるのだ。歌舞伎町の刹那的な生き方をしている若者たちが地雷系の服を好む、あるいは女装初心者の人がなぜかむやみやたらと地雷系を着たがるのは、自分のファッションセンスを磨くことなしに、一定水準以上のアイデンティティを表現することができるからなのだ。原宿系ほどエッジが効いているわけでもなく、量産系ほどありきたりでもない、個性は出したいがそこまでのセンスはないというまさに「自由の刑に架せられた」若者たちが必死になって求めたものこそ、地雷系の服だったというわけだ。そして私はさらにその潮流に縋ることになったわけであり、多くの若者たちの流れの中に、デザイナーの新進気鋭のセンスの中に韜晦し、自分のこだわりやセンスのなさと日々格闘する義務から逃れようとしたのである。

 

ただ、そのような文脈と個性とを両立した流行りのスタイルの弱点として、流行の終焉という来るべき事実を見過ごしてはならない。流行りはいつか終わる。地雷系はパンクとサブカルチャーの融合という意味合いが強いが、大抵サブカルチャーに依存したファッションの流行は突然始まって突然終わる。溺れたアリは激流にいつまでも逆らいつづけることはできない。藁をも掴む思いで手に取った地雷系の服も、今ではもうとっくに時代遅れのものになってしまった。私の藁は藁にすぎなかった。いま私は流されている、流され、流され、流され続けて、大海に至る最果ての汽水域でとうとうファスナーを閉め忘れるのである。

 

 

 

昔のうゆ

 

 

 

今日のアルバム

lilbesh ramko『徘徊collection』

「ドーパミン中毒の歌」と揶揄した人もいた。ハイパーポップ系にルーツがあり、音割れや予想外のサンプリングがカオティックで楽しい。これも地雷系のように一時的なサブカルチャーの文脈で終わらせられるのかもしれない。

 


あや生誕。

びっくりドンキーのでかい木のメニューは全てあやが素材を集めるところから手作りしていた。

 

 

せりにゃん生誕。

せりにゃんは珪藻土マットの特許権を巡ってショーンKと裁判を起こしたことがある。

 

ちさと新衣装お披露目。

NASAにはかつてちさとをロケットに乗せて飛ばす計画があったが、結局2頭の犬が選ばれた。