- 強い雨風は私を殺す最大の邪悪である。
どんなに時間をかけてヘアセットをしたとしても、彼らの手にかかれば家に出てものの数分で、私の髪はほとんど寝起きと変わらない状態に逆戻りしてしまう。
ああ、なにを隠そう今も鳥の巣のような頭を必死になだめすかそうと絶望的な気持ちで櫛を通している最中なのだ。
「やめろ」と叫んでも風は止んでくれない。「あとにしてくれ!」と懇願しても雨雲は空を覆っている。はてさて、雨風にしろ暑さ寒さにしろ、自然現象のもたらす不快や痛苦への怒りというのは、一体どこに向けるべきものなのだろうか。
ポリネシアに見られる「サモア」という共同体の事例からは、通常では法的に規制されているはずの暴力的な怒りの発散という行為が、予め社会システムを維持するために必要な段階として組み込まれていることの必要性について見ることができる。
これはマーガレット・ミードという文化人類学者が調査した事例だ。ミードが観測したサモア社会は、何らかの犯罪行為とそれに対する制裁とが、日本を始めとするいわゆる近代社会に比べてはるかに直接的に結ばれることを特徴としている。
例えば高い日の激しく照りつける夏の正午、ある男が突然市場からリンゴをひとつ盗んで走り出したとしよう。当然市場の女は彼を指さして「泥棒!」と叫ぶ。
日本であれば、ここで「お巡りさんを呼んできて!」という声がどこかで聞こえてくることだろう。周りの人々は狂疾に駆られた男の確保に協力するかもしれないが、最終的な裁きはいくつかの機関を経た正当な手続きの末、司法によってなされるだろう。そして男はお上からこってり油をしぼられたうえで釈放されるか、悪質な場合は懲役刑に付されるはずだ。フーコーが『監獄の誕生』について述べたところによれば、これは近代社会において、正常な社会と病的な犯罪者達とを象徴的に切り離す装置として監獄というものが設置されたためであり、懲役刑という犯罪の内容とは無関係に一本化された刑罰によって効率的な処置のサイクルを成立させたことの結果である。犯罪の行為者と被行為者は単純なようでいて複雑なシステムに隔てられ、お互いにそれ以上個人的な関係を結ぶことなしに一連の事件についての処理を完了させることが出来る。
サモアの場合は違う。男がリンゴを盗み、女が「泥棒!」と叫んだ、その瞬間周囲にいた人は男を取り押さえ、滅多打ちにし、ほとんど半殺しにするまで長い間彼を取り囲んで拘束する。そして村人同士でサークルを組み、中心に留め置かれた男が弱っていくのをとにかく監視し続けるのだ。これはむしろ原初的な方向性に基づいて単純化された刑罰のかたちであるとも言えるが、しかし日本のそれともっとも大きく異なる点は、その関係性が行為者と被行為者の間に比較的直接的に結ばれることである。共同体の中で発生した犯罪行為を、同じ共同体の中で裁いて完結させる。このようにしてごく小規模、かつ単純な形で行われる処罰プログラムは、共同体が維持される過程で必然的に澱となって積もり続ける鬱憤、あるいは行き場のない処罰感情といったものを一度に発散させるカタルシスのための装置として機能している。すなわち、日本の場合に戻って考えた場合、肉親が何らかの犯罪行為に巻き込まれたとき、遺族は行為者に対して何ひとつの制裁を加えることができない。司法の判断如何によっては、行為者がほとんど何の罰も受けていないように感じる遺族も少なからず存在するだろう。一方でサモアの場合はそれがない。やられたものにはきっちりやり返すことができるし、そのことに何らかのペナルティが課されることもない。そして、何より犯罪者に共同体全体で制裁を加えるという特徴によって、共同体の中で可視化されない形で堆積していく衝動、例えば罪にこそ問えないが腹立たしくて仕方のない事案、あるいは私にとっての風雨のようにささいだがやり場のない日常における怒りといったものがシステムに健全な形で包含された範囲内で適切に発散されることができる。つまり犯罪は社会にとっての危機でなく好機である。サモア社会はそのようにして本来社会の維持において脅威にしかなりえないはずの犯罪の在り方をポジティヴに転換させ、より単純で優れた扱い方を実現させているのだ。
現代の日本においては、これが特にネットリンチのような形で具象化されるケースが多い。SNS上で炎上してしまった人に対して行われる際限のない誹謗中傷やプライバシー侵害の数々。炎上の渦中にいる人は、彼の犯したことの軽微さに対してはるかに重大な責め苦を負わされていると感じる。例えば、最近では韓国アイドルのグリーティングイヴェントの剥がしが強引すぎるということで動画が拡散され、そのスタッフは「シュシュ女」と揶揄され無数の誹謗中傷を受けた。その中には命に関わるようなものもあった。ただ仕事を張り切りすぎてしまったという罪状に対してあまりにも厳しすぎる仕打ちといえるだろう。彼女の行ったことはもちろん犯罪ではない。にもかかわらず彼女は実際の犯罪者に比べて何千、何万倍という規模の糾弾を浴びることになった。これはSNSというツールが被害者と加害者とをより直接的に、少なくとも司法のシステムよりもはるかに直接的に結びつけることを可能にしているためであって、人々は日頃溜め込んでいるやり場のない鬱憤を、彼女のように直接声を投げかけうる「小悪人」へ、正義の使者となってぶつけることで解消しようとしているのだ。これはヴァーチャルな空間において擬似的に顕現されるサモア社会のモデルである。結局のところ、悪への直接的な報復によってしか社会の澱は解消しえないのである。
私はアンガーマネジメントが下手な方で、ひどい時は公共の空間でも声を出さずにはいられなくなったり、逆に部屋から全く出られなくなったりすることが少なからずあるのだが、私が一時期行っていたアンガーマネジメントの方法として、「メヌジン」へ八つ当たりをするというものがあった。
「メヌジン」とは私の考えたオリジナルの神様である。人間の「怒り」そのものを司り、その一切の創造主として、人間の有り余る怒りを自らに引き受ける役割も担っている。名前の由来は「怒」という漢字を崩して「女ヌ心」とよませたものである。
あるときの私は、雨風のように誰にもぶつけようのない怒りや、そもそも誰にもぶつけたくないときの怒りを、全て架空の神・メヌジンにぶつけることによってストレスの発散を図っていた。メヌジンは漫画『ワンピース』に登場するクローバー博士のような頭部に象の鼻をくっつけたような見た目をしていて、薄い色つきのサングラスをかけている。性格が悪く、差別主義者で、顔も醜く体も臭いという特徴を持っていて、人に借りた金をなかなか返さず、レスバを好み、大抵駅で歩きスマホをしていることでも知られている。そのようなメヌジンは当然信じ難いほどうざったいし、こう言ってはなんだが怒りを向けるべき対象として大変に適しているので、私も心置きなくやり場のない怒りをメヌジンに向けることができているのだ。唯一の懸念点としては、そのエネルギーが堆積していった果てに、それがひとつの巨大なエネルギーとして具現化し、本当の怪異となって私を脅かすのではないかということである。
これについては恐らく、メヌジンへ怒りを向ける人が増えれば増えるほど1人あたりにしっぺ返しされる厄災の量も減少すると考えられるので、皆さんにもぜひメヌジンを利用していただきたい所存である。
メヌジンさえいればシュシュ女もあれほどひどい目には会わなかったかもしれない。みなさん、誹謗中傷は絶対にいけません。誰かを傷つけたくなったら、どうかメヌジンに怒りをぶつけることを念頭に置いておいてください。
今日のアルバム
グレン・グールド『The Well-Tempered Clavier Books』
ピアニストはグールドが一番好きだ。
ホール演奏をやめて狭いスタジオ録音に切り替えた彼の演奏技法は、猫背のまま腕の先だけを動かす特徴的なものになった。体全体で響かせるのではなく、一音一音を丁寧に弾くスタイル、それが彼の穏やかな鼻歌と程よく調和して、古典主義に新たな可能性を切り開いたと思っている。(眠いので日本語がおかしいです。ごめんなさい。)
ういなさん生誕。
ういなさんは自分の車をもっているが、7輪なので意味がわからないし遅い。