うゆです。
三叉路で鹿に衝突したので15分遅れます。
今日は朝からストレスにやられていたので、「画数が多い!画数が、画数が多い!これから新しい漢字練習帳を買いにいかなければなりません!」と意味不明なことを叫んでしまった。このようなとき、自分の中では「こういう言葉を言おう」といったん内容を醸造する手順を踏んでいるわけではなく、「このように言わなければならない」という切迫した義務感のようなものが風船のようにむくむくと膨らんで心を圧迫し、それがとうとう心の中に収まりきらなくなると、声に出して叫ばずにはいられなくなってしまうのだ。精神的な衝動の巨大さに対して体はあまりに不自由で窮屈だ。
ビートルズの「Across the Universe」の歌い出しに「words are flowing out like endless rain into a paper cup」(言葉は降りしきる雨のように紙コップの中からこんこんと湧きだしてくる)という歌詞がある。これはジョンの当時の妻(ヨーコではない)が、深夜にぶつぶつ呟いていた言葉なのだというが、私の場合もこれと同じようなものだと思う。言葉が湧きだしてきて止まらなくなる、抑えきれなくなる。
ともあれ、学校には行った。もう休むことのできる日数は残っていなかったから。それは安部公房についての授業だ。彼の作品を読みながら、そのスタイルや政治的立場の変遷をたどる、よく言えばオーソドックスな、悪く言えば退屈極まりない授業。それでも、履修してしまった以上出席しなければならない。本当はもっと履修者が少ないと思っていたのに、予想に反して授業は大教室で行われた。つまり履修者は200人程度いることになる。安部公房は素晴らしい作家だが、それほどまでに人気があるとは思っていなかった。語りや自己同一性の問題以前に、彼の作品には仕掛けとして目を引く素晴らしいサスペンス性があるし、文学的な表現の難解さに目をつぶりさえすれば露悪的な通俗小説として読むことも一応できなくはないから、純文学への入りとしては結構キャッチーな方なのかもしれない。
私は参考資料を読むフリをして卒業論文に使用できそうな本をいくつかめくっていた。学部生が図書館で一度に借りることのできる本はたったの15冊までなので、それぞれの資料の使える範囲を予め把握し、コピーをとっておかなければならない。面倒極まりない作業だが、全く関係のない退屈な授業の間に行っていると考えた途端、ひどく有意義で希望に満ちた行為のように思えてくるのだから面白い。ただ、授業をやってくれている教授には失礼にあたるので、授業のメモをとりながら進めた。当然のことながら、教授は本当はすごい人なので、こんなにつまらない授業をするくらいならその間に論文を書いてもらった方が教授からしても生徒からしてもお互いにwin-winなのではないだろうか。その場合、国の研究的にもwinなので、win-win-winと言うべきかもしれない。(ハハ、そうですか。そのようなあなたの冗談はいつも我々を笑わせます、素晴らしい夜に。)win-win-winというと、中学生のときに覚えさせられた不規則動詞変化表のことを思い出すが、winの変化はwin-won-wonなのでまちがえてはいけない。
昔アルバイトしていた塾で見ていた生徒のことをたまに考える。今でもSNSで連絡をとりあっている子も何人かいるが、そうでない子の動向はもう追うことができない。私にエッチな言葉の意味を色々と聞いてきたマセガキとか、塾を辞めるときにペンをお小遣いでプレゼントしてくれた野球少年とか、私の嘘のアドバイスを真に受けて公園にレジャーシートを敷いて勉強した意味のわからない女子高生とか、彼らが今どこで何をしているのか、決して長い付き合いではないのだが、老婆心に案じてしまう自分がいる。一緒に何度も練習した不規則動詞変化表を生徒が今も覚えているとは限らないし、お互いにちょっとイラつきながら進めた三角関数の公式は、生徒が大学に進学した今では全く使わなくなっているだろう。それでも、彼らの記憶の片隅に先生としての自分がいて、理由の分からない不思議なタイミングで彼らの意識下にひょっこり私が現れてくることもきっとあるだろうと思うのだ。私は座標から一次関数の式を求める公式(y2-y1)/(x2-x1)を見たときに、今でもそれを教えてくれた個別塾の先生の顔を思い出す。私があまりにもそれを覚えられないから、1ヶ月の授業をまるまる、テキストの72頁の問題を解くことに使ったのだ。そのあとのテストで82点をとった私に先生が買ってきてくれたチェルシーの濃密な甘さを、私は今でもよく覚えている。
だから、きっと生徒たちの記憶の片隅にも、私はまだくだらない嘘ばかりつくセンターパートの男の先生として残っているのだろう。彼らが選挙権について考えたり、なにか理不尽な目にあったりしたときに、「若者ならば怒りを持て!」とペンを振り回す私の姿が現れてくれるのであれば、あのつまらなかったであろう授業の時間も報われるというものだ。そのときは気づかなくても、本当に価値のある思想というものは、全てのものが輪郭を失った忘却の土くれの中に、いつか太陽の光を受けてキラキラと輝き出てくるものに違いない。それはきっと私がくだらないといって放棄している安部公房の授業の中にもあるはずだ。だから私は、いかにそれがくだらなくとも、価値がないように見えようとも、とりあえず耳に飛び込んできた情報だけはメモランダムに残しておこうとするのである。それがいつか、私にとって本当に大切な言葉と出会ったことの証明になることを信じて。
今日のアルバム
踊ってばかりの国『君のために生きていくね』
本当に嫌なことがあった日の帰り道、国道に滞留する車のテールライトの真っ赤な行列を見つめながら、「どうか僕だけのために生きてくれ」と思いながら必死に聴いたアルバム。同アーティストの中ではサイケ感は強くなく、陳腐な歌謡曲のニュアンスもある。しかし、確かな作曲技術と、その上に乗せられたややペシミスティックな歌詞は、「君のために生きていくね」と恐れ知らずにも断言してしまう若者にしか歌えない力強さを含んでいる。
あや生誕。
あやは「フレッシュネスバーガー 赤羽店」に、住んでいる。
せりにゃん生誕。
せりにゃんは通信交換でイワークに進化する。
ちさと生誕。
この前ちさととムエ・パーックラを見に行った帰りにクイッティアオ・クア・ガイを食べ、ロットゥーで帰った。