パワ原 うゆです。
2角形の作図が見たい方は、Newtypeまで。
退屈な目覚めではなかった。
国粋主義の街宣車のがなり声に意識を蹴り飛ばされるようにして目を覚ました私は、しばらく患っていた喉の痛みがひどくなってぶり返しているのに気づいた。息を吸うたびにざらついた空気が気管の壁に引っかかって咳を誘う。内臓全体を揺るがすように低く乾いた気味の悪い咳。あと何回かしたら血痰でも出てきそうな勢いだ。ベッドから出て昨夜から開け放しにしていた窓を閉める。喉の痛みはおそらくここから流れ込んできた国道沿いの汚れた大気のせいだ。これが目覚めの口実になるのよ、昨晩電話越しにキャスリーンが言った通り私は窓を開けて寝たのだ。まずはベッドを出ないことには仕方がないし、そのあとでまたベッドに戻ろうなんて気は起きないでしょう?
確かにそうだ。
私はため息をついた。
でも喉が痛むんだよ、キャスリーン。
窓を閉めると街宣車の声はずっと遠くなった、目覚めた瞬間から急激に薄れてゆく夢の記憶みたいに。
街は曇っている。街は巨大な国道に遮られて向こう岸にある。低く垂れこめた雲は空を突く摩天楼の先を曖昧に霞ませている。白内障気味にぼやけた摩天楼の単眼が見下ろす街─街には傘を差した人が歩いている。雨も降っていないのに。晴れているわけでもないのに。曇りの日にだって傘を差していてもいいじゃないか。やってはならないことなんてものはこの世の中にひとつだってないんだから。
行為することができる、それは即ち行為してもいいということを意味する!
「神のお告げで」唯物論に目覚めたのだという教授は、授業中に突然教壇のマイクをひっつかむと、後方の席で居眠りをこいていた男子学生に向かって勢いよく投げつけた。2日前のことだ。不幸な男子学生の頭蓋が破壊される音は機械によって増幅され教室中に朗々と鳴り響いた。すぐに救急車が呼ばれ、病院に搬送されたものの彼は結局助からなかったと聞いた。あれ以来マイクの音は私の頭から離れず、日常のふとした瞬間にどこからか鳴り響いて、私をあのおぞましい瞬間に無理やり引き戻そうとする。つまり、私はあのときから、マイクの衝突する「バゴン!」という音を中心にぐるぐる回り続ける時計の針のようなものになってしまったのだ。
例えるならどんな音だったの?
うーん、難しいな、強いていえば遊園地の係員が観覧車の扉を思い切り閉めるときみたいな音さ。
随分激しいわね。
うん、実際激しかったんだよ。
そういえばあたし、観覧車なんて長いこと乗ってないわ。
それじゃ、行こうか。今週末。
今週末。あたし水色の服を着ていくわ。ちょっと大きいのを買っちゃったんだけど、ぴったり会うように2週間かけて太ったの。
そうしたら他の服が着られなくなっちゃうじゃないか。
いいのよ、それは捨てるから。捨てるだけならお金もかからないし。
思考する筒としての我々は、もう一回り外側の筒をスムーズに着脱するために大きくなったり小さくなったりする。これは一体馬鹿げたことだろうか?自分の身体が服のサイズに合わなければ間違いで、合えば正しいのだ。とどのつまり我々は服という目的の奴隷である。外側の筒は内側の筒を取り巻いて支配し、彼らの思い通りの性格に洗脳したり、思い通りの行動をさせたりするのだ。例えば我々が学校の制服という筒に支配されてしまった場合、我々は「生徒」となってその学校のルールに従うようになる。あるいは、使い古しのTシャツと短パンという服に支配された場合、幸運なことに我々はそれほど厳密に自分の行動を省みる必要はないし、必要最低限のルールに従ってさえいればいい。
服、というか規範のドレイに過ぎないわね。服というのがそもそもある種の社会規範に則って採寸され、規定されたものだもの。
君の言うことはもっともだ!!!
私はそのように叫んで(これは私にとって確かなことだが、彼女にとっても確かなことであるとは限らない。というのも、私は私の内側で私自身の─「バゴン!」と─叫ぶ声を聞きはしたが、それが果たして外側に向けられた発話行為として実際に彼女の耳に届いたのか、あるいは単に私が精神のうちで轟かせた激情にすぎなかったのかについては確かではないから。もしかしたら、今朝私の眼を覚まさせた街宣車のがなり声も、男子生徒の頭を破壊したマイクの音も、キャスリーンの声も、何もかも私の妄想に過ぎないのかもしれない。それは夜半の救急車のサイレンが、いつの間にか自分の脳内に植え付けられて、救急車がとっくのとうに走り去ったあとでもずっと脳内に鳴り響いているときみたいに。)、手にしていた携帯電話を空へ高く放り投げた。高く打ち上げられた携帯電話はやがて朽ちて、バラバラになり、一本の骨だけになって私の手元に戻ってきた。私はその骨を振り回しながら通りを駆け出して行った。呼吸器系は悲鳴をあげた。私はかすれた声で高く笑った。平均時速12000kmの国道は1時間で朝と昼と夜を3回転した。
それで
私は言った。
次はどれに乗ろうか?
決まってるじゃない。観覧車よ。
また観覧車かい?これで5回目だよ。
5回目だからなんだっていうのよ。私たちは観覧車に乗りに来たんじゃなかったの?
まあ、そうだけどさ。そうだけど、僕は他のにも乗りたいんだよ。ジェットコースターとかさ。
一体そんなものの何が楽しいわけ?車輪のついた馬鹿みたいな箱に乗ってウーウーキャーキャー騒ぐだけの原始的発明。それじゃ聞くけど、ジェットコースターと私たちが今日ここまで乗ってきた車とで何が違うっていうのよ。
全然違うさ。だいいちジェットコースターは車よりずっと早く走るし、高いところから落ちるんだよ。
高いところから落ちることがそんなに楽しいなら観覧車のてっぺんからおっこっちゃえばいいのよ。
君が何を言っているのかさっぱり分からないよ。
そのとき、我々の乗っている観覧車のセルの扉を遊園地の係員が思い切り─「バゴン!」と閉めた。私は獣のように唸った。男子学生の頭蓋を破壊したマイクの音を思い出してしまったのだ。私は夢中で係員に掴みかかろうとしたが、悲しいかな、扉は内側から開くことができない設計だった。愚かしく扉の内側を引っ掻く私。しかし抵抗も虚しく我々の乗っているセルはどんどん上昇していく。私の目は、徐々に遊園地の全景を捉え、街を捉え、地平線を捉え、とうとう大気圏をも捉えた。
長い時間が経った。おそらく、宇宙が始まって終わり、また始まって終わるのにちょうどかかるくらいの時間。でもそれはきっと10分に満たないくらいの間だったと思う。観覧車というものは、時計の針の著しく速く進む遊園地という場所の中で、たった一つ恐ろしいほど遅鈍なペースを保って回り続ける独立した時間の象徴である。あるいは、それは一番巨大な歯車であるということもできる。観覧車の巨大な1周はメリーゴーラウンドの小さな1000周に値する。つまり、私が何を言いたいのかというと、観覧車とは時間を無限に増幅させる悪魔の円運動であるということ。ただ、それだけ。
観覧車の中で我々の身体が過ごした時間は短く、精神が過ごした時間はあまりに膨大だった。したがって、我々は肉体の変化をそれほど感じないうちに精神的な哲学や思想の極めて難解な問いに挑むことができた。私にとってそれは、何が嘘で、何が本当かということだった。
私は老人になった。顎は変わらずすべすべしていたが、精神の方はすでに仙人のようにひげもじゃだった。すべてが完成したと思ったのは、精神の、秋が終わって、冬を迎え、やがて生え揃った髭がとっくに1本残らず抜け落ちてしまったあとのことだった。
キャスリーンは足を組み直した。ハートの形をした小さなハンドバッグからリップスティックを取り出し口紅を塗りなおす。窓の外は宇宙。
地球のはね返した太陽の光が私たちのいるセルの内部を薄暗く照らし、その中でキャスリーンの唇は赤色超巨星のように赤く浮かんでいた。
私たちは顔を見合せてにっこりと笑いあった。
何も怖いことはないでしょう?
キャスリーンは言った。
結局、そう、結局ね。マイクの音なんてなかったのよ。街宣車の音も、私との電話もなかった。水色の服もなければ、遊園地も、観覧車だって存在しない。もちろん私とこの空間もね。あなたにとってはあの退屈ではない目覚めから始まったことのすべてが虚構にすぎないのよ。
うん。どうやらそうみたいだ。マイクの─「バゴン!」という─音もどうやら止まったようだし。とどのつまり、この世界にあるものは僕が─あるいは誰かが─止まれ!と必死に思うのではなく、そもそも書くのをやめるか、忘れるかすることによってはじめて完全に消え失せるんだね。本当に存在しないということは、否定されることではなく忘却されることなのだ…。
僕には一つだけはっきりと分かっていることがあるよ。それは、忘却によって僕が存在しなくなったあとでも、この喉の痛みはここではない世界になお残るということだ。それは僕が喉の痛みという身体感覚を通して他の世界の誰かと繋がっていること、そしてほかでもないこの喉の痛みによって僕という存在が造形されたということを意味する。とどのつまり僕は本質(用途)であって実存(純粋に、無目的であれ存在するということ)ではない。僕にとっての本当の実存は、この喉の痛みにほかならないんだよ!
僕というが本質(用途)に応じて僕の一周り外に服というものを纏うように、本当の実存(純粋に、無目的であれ存在するということ)である喉の痛みは、僕を本質(用途)として纏ったのだ!僕は痛みの外套に過ぎなかったのだ!
私は立ち上がった。セルは観覧車の頂点をとっくにすぎてゆっくりと下降を始めていた。キャスリーンはもうそこにはいなくなっていた。そこには私と私がいるセル、そして窓の外に再び姿を見せ始めた遊園地の全景だけがあった。約10分後、セルは乗降場に到着し、遊園地の赤いポロシャツを着た係員がセルのドアを外側から開いた。もう恐ろしい音は鳴らなかった。つまり、全てが終わったのだ。私はもう思い出されることもなくなるだろう。街宣車やキャスリーンやマイクの音と同じように。そして、私が消えたあとで、きっとこの喉の痛みだけが残るだろう。
私セルを出て思い切り伸びをした。関節が軽い音をたてて軋み、喉の奥からいっそ全部思い切り吐き出してやりたくなるような快感の流れがせりあがってきた。その代わりに私は叫ぶ。
君の言うことはもっともだ!!!
叫びは遠く星々を赤色に染め、世界を480°、つまり夜を朝に、朝を昼に、昼を夜に、夜を朝に変えた。喉の痛みの外套にすぎないはずの世界。その全てがこれほど美しいものだというのなら、きっと中心たるこの喉の痛みも美しいのだろう。私はこの一言を最後に永遠にいなくなってしまうだろう。私の語りの満了とともに。2回咳をした。喉は朝よりもひどく腫れて鈍く痛んだ。
今日のアルバム
Mid-Air thief『Crumbling』
工業排水の流れる花壇になぜか美しい花が咲くように、ノイズと不協和音のうえに快感が生まれ、つい身を預けたくなるようなグルーヴが湧き出てくる。
あや(セロハンテープの発明者)の生誕。
せりにゃん生誕。
せりにゃんの家の庭にはキンパが自生している。