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旅情について、それから愛媛旅行のこと

旅情について

 

旅情とは痛みである。

そのときその場所に自分がいたという実感がやがて世界からまるきり剥がれ落ち、はじめからなかったのと同じようになる、そういった予感から生まれる、逃れようのない旅の宿命的な痛みだ。非日常たる旅は不機嫌な猫に似て、現実に対してあまりに不可解、意地悪な捻くれ者であり、どんなに仲良くなろうと努めたところでするりと逃げ出してしまう。決して克服しようのない異質はそのようにして我々の前に厳然と立ちはだかるのだが、しかしそれゆえに旅は明確な始まりと終わりを持つひとまとまりの経験として唯一性のまばゆい光を放ち、本来あるべき単純な移動としての性質を離れ、我々が感覚する主体としての自己意識を持つに至るための神秘的な作用を発揮するようになる。

 

 

ベルナルド・ベルトルッチ監督の映画『シェルタリング・スカイ』にこのようなセリフがある。

 

「私たちは旅行家(トラベラー)よ」

「どこが違う?」

「着いてすぐ帰ることを考えるのがツーリスト

。トラベラーは帰国しないこともある」

 

 

旅情とは、旅の終わりと喪失の予感に基づいて生まれる痛みであり、この意味においていえば終わることに囚われた「ツーリスト」特有の病のようなものだと言えるだろう。ツーリストはあくまで旅行者でしかない。訪れた先の土地や人々と決して同化することなく、きっちりと引かれた境界線を踏み越えることのない他者としてのみ旅に参加する。既知と未知、その差異の引き起こす摩擦の中で彼らは常に旅の終わりを予感し、それが旅情となって鈍い痛みを引き起こすのだ。反対に、トラベラーとは本来予期していなかったはずのせぬはずだったところで異郷と思いがけない同化を果たしてしまった人間のことである。それはその人のノスタルジックな、つまりは過去に関する曖昧だが慢性的な欠如を、その場所が奇跡的に補完しえたためなのかもしれないし、現地の風土があまりにもその人の体温に馴染みすぎていたからなのかもしれない。いずれにせよ、彼らは何らかのひどく運命的な符合によって異郷との深い、考える間もなく一瞬で引き込まれる眠りのように深い同化作用に身を預け、親密になり、人生のある段階をその土地に捧げる決心を知らず知らずのうちに終えるのである。彼らが旅の、ときに長すぎる旅の終わりを意識することがない以上、そこに旅情は発生しない。彼が感じるのは旅情の痛みではなく、目には見えない運命的な力に為す術もなく引き寄せられ、その旅を計画した瞬間から大きく変わり始めていた人生への不思議な感慨である。

 

 

 

 

 

 

旅情と私

 

日の傾き出すのと同時に降り始めた。

江戸以来の景観を残す古い石畳の街並みにはむっと土の匂いが立ち込め、そう遠くないどこかで犬の慌てたように吠える声が立った。厚く垂れこめる雲は空を宵という以上の恐ろしい群青に染めている。滴る雨粒は私の鼻先を濡らし、肩を濡らし、髪を濡らしてゆく。

本降りになる前にはバス停に着くだろう。そう思ったから傘は差さなかった。

 

勢いを増しつつある雨粒は石畳にびっしりとまだら模様を描く。石畳はすぐに黒く湿って怪しくひかりだした。早足にバス停へ向かう。旅行先とはいえここを訪れるのは2回目だ。バス停の位置はよく分かっている。

 

観光客たちが私と逆方向にかけてゆく。駅へ向かうのだろうか。坂をくだったところの喫茶店で雨宿りでもするのだろうか。

 

私の濡れた頭を撫でる母のハンカチーフ。カバンのこもった匂いに紛れて立つ柔軟剤の清潔な香りを私は思い出した。幼い日のにわか雨、傘を忘れて濡れ鼠になった私に呆れてため息をついた母の口もとに虫歯がのぞく。ひとけのない遊園地のフードコートは全てが薄く濁っていた。孤独に?あるいは愛に。冷たいたこ焼きを噛み締める歯が切なく弾んだ、「冷めちゃったねぇ」。母が疲れたように笑う。

 

 

大きく息を吸った。いま私は一人だった。一人になりたかったから飛行機に乗った。私は旅によって日常生活の何もかもから乱暴に切り離された自分と、そこに生まれくる感覚の正体を知りたいと思っていた。愛媛を訪れるのは去年の夏に続いて2度目だ。案の定初めて訪れたときほどの感動はなかったが、私はむしろその方がいいとすら思った。感動なんていらない。ましてや旅情なんて。

 

つまり私はトラベラーでありたかった。ツーリストでなく、トラベラーに。何かふとしたきっかけさえあればもう二度と家へは帰らないのだと、なんの躊躇もなく簡単に決意してみせるくらいの、この地への濃密な帰着の予感が私を支配していた。それにはそこが敬愛する作家の故郷であることも大いに関係していただろう。大江健三郎、遅鈍な犬のように訥々とした語りで曖昧なもの全てへの探求を導いてくれた作家。そこは彼の作品の多くにも登場する、彼の想像力の源泉である。彼のあらゆる感覚を包み込む空間そのものとして私をしっかりとだき抱え、時間から切り離すようにして私を神秘的な体験に接続した。人工衛星やキャメラで捉えられた冷静で客観的な姿でなく、ほかならぬ自分の感覚で捉えた物事の全ては、文字通り私を形づくる血肉となって、そこを去ったあとで長い間私に減圧症の軽い痺れに似た別離の感を引き起こしていた。再びそこを訪れたいと思うのに強い理由などなかった。訪れたい、というより、戻りたい、と思っていた。

 

大江文学においては「谷間の村」と呼称されるその場所は、私が雨に降られた内子という田舎の観光地からさらに乗合バスで山道を登っていったところにある。山を登る、というより森へ潜り込んでいく、という方が適切だろうか、蝟集した木々の尖った切っ先が縁取る空は道のりとともに狭まり、鈍重に陰影をきざむ深緑の壁に挟まれるようにしてバスは進む。そのようにしてようやくたどり着く先は深い谷間にパックリと裂け目のように生じたひとつの集落である。谷底に一筋の川を見下ろし、そこから護岸を挟んで数段あがったところの斜面に家々が並ぶ。これといった資本の形跡はないが、集落には魚屋や米屋、営業しているかどうかは不明だが雑貨屋なんかがあって、公共施設として小学校、郵便局、寄合所がある。県道は川の向こう岸にあり、村へ渡るには橋を渡る必要がある。川はそれほど大きくないが、いちばん深いところでは私の身長を優に越してしまう。河岸の浅いところにもウグイやオイカワの稚魚やカダヤシなんかが群れをなして泳いでいて、深いところへ踏み入っていくとマスやコイの姿も見られる。川に向かって岸が緩やかな傾斜を作り、中流のほどよく平たい岩の連なるこのあたりは知る人ぞ知る釣りスポットでもあるようで、シーズンになるとマス釣りの人も訪れるという。

 

また、村はお遍路のルートにも近い。地図を見るとどうやら札所同士の10km以上離れた中継地点に当たっており、なかなかの難所のようだ。遍路道ということもあってふもとから村への道中には笠を被り杖をついた人の姿もちらほら見ることができる。今回私が宿泊する施設も、利用者の半数以上がお遍路途中の人だということだった。

 

 

 

2時間に一本、片道450円の乗合バスの背を見送る。人で賑わい、コンビニや飲食店といった生活上の保護網に満たされた町と私とを結ぶ最後の接点。バスが行ってしまった途端無性な不安と寂しさに襲われる。この集落にはコンビニも飲食店もない。労働という見知らぬ誰かの不断の犠牲によって維持された都市に、自分がどれだけ依存していたか実感する。一人では何も出来ない、身震い、土と草の入り交じった匂い。山々は遠く雨にけぶり、見渡す川べりに点々と花開く桜の木は鈍く曖昧な空にくすんだ灰色を投げ出している。力をこめてなんとかリュックを背負い直した。

 

 

到着連絡を入れると宿泊施設の担当の方はすぐに来てくださった。前回と同じで私も勝手は分かっている。親切な方だ。大江が好きだという私に彼と親戚関係にある方を紹介してくれるという。今回は突然のお申し出なので丁重に断ったが、次回はお会いさせていただくつもりだ。

 

宿泊手続きを終えて担当の方が出てゆき、そこでようやく一人になった。夜と言うにはいささか早すぎる時間ではあるが、それでも長い一日だったと感じる。天気も天気だし、さっさとシャワーを浴びて布団を敷いて、本を読みつつ寝落ちでもしよう。

 

 

旅行先こそ普段の生活を心がけたい、と思っている。旅行先だからといってなにも息せききって見知らぬ場所を火のついたネズミみたいにぐるぐるぐるぐる回り続けなければならないという掟はない。それは帰郷というタイムリミットに縛られ、四六時中チラチラと帰りの飛行機のチケットを伺っていなければ気の済まない薄ら凡愚の惰弱である。 私は黙って本を開き、連れてきたぬいぐるみを抱きながら、微睡みのあきらめにも似た感覚に身を預ける。それこそが本当の旅に身を投じることだと知っているから。眠って起きての波間をかいくぐって、少しづつ空が暗くなっていくのを時折ちらりと見やる、素晴らしい時間。これこそ人間の幸福の至上とするものである。ああ、春の日は決して短くはない。

 

 

そのとき私が読んでいたのは湯浅晴夫という人が書いた『四国八十八ヵ所遍路旅日記』という本で、齢70を超えた筆者の、無謀ともいえるスケジュールに基づいたお遍路の旅が綴られている。本文でも明らかにされていたが、筆者が旅の途中で私も宿泊している施設を利用したようで、私が読んだのはそのよしみで筆者直々に寄贈された本だということだった。旅の途中の記録を見て驚嘆する。なんと彼の一日の平均歩行距離が約40kmに及んでいるのだ。

 

私は今年の元旦に、友人とともに千葉県を横断する約40kmのランニングを敢行した。日の入りを見てから友人共々我が家に宿泊、年越しとともに我が家を出て走り、太平洋を臨む海岸で初日の出を見ようという計画だ。私がもともと膝に故障を抱えていたのと、そもそもランニングだったという違いもあるが、それがなくてもその道のりは非常に”terrible”なものだったと断言できる。今でもこまめに筋力トレーニングに勤しんでいる元サッカー部キャプテンの友人ですら、到着時にはほとほと疲労困憊して立っているのがやっとという有様だった。私も、実際私のためにランニング自体は途中からほとんどウォーキングに変わってしまったのだが、膝を著しく損傷、階段を昇ることもできず、ろくに座ることも立つこともできず、一旦立ち止まったら友人に肩を支えてもらわなければ歩き出すこともできないくらいに成り果てていた。さらに、そのあとも1ヶ月ほど駅の階段を昇り降りすることができずエレヴェーターを利用しなければならなかったことを考えると、普段文明の利器にかまけて足をすっかりなまくらに腐らせた一般人にとって、40kmという道のりを歩き通すことがいかに困難で苦痛に満ちたものか分かることだろう。それを70歳の湯浅は約1ヶ月毎日続けようというのである。正気の沙汰ではない。

 

さすがに彼も途中で頓挫してしまうのだろうなと思いながら読み進めたのだが、予想に反して彼はきわめて頑健な老人で、その年齢からは想像もつかないタフな肉体を存分に駆使して激しい高低差のある四国の大地を確かに踏みしめ歩いてゆくのである。途中で悪天候や腰痛に悩まされ計画に若干の修正は強いられるものの、それでも彼は当初目標としていた1ヶ月以内の88箇所完全制覇を成し遂げる。実に驚嘆の限りである。読みものとしても面白くて、宿の女将さんに怒られたり、山中でお腹を下したりしたときの経験なんかも赤裸々に語られるので、まるで個人の日記を盗み読みしているような気持ちになる。文中には何度も「一期一会」という言葉が出てくる。これはお遍路の孤独と、その中で美しく光るつかの間の縁について言った言葉だ。お遍路を巡る人は道中で同じ旅路をゆく人と出会い、しばらくともに歩いたあとで各々のペースに沿って別れを告げる。そのようにして同じ旅人同士の出会いと別れがある。また宿の人とも一宿一飯の関係を結ぶ。それから「お接待」という文化もあって、これは現地に住む人々がお遍路さんに空海の御霊を見出し、お布施として差し出すサポートのようなものだ。「袖振り合うも多生の縁」というが、そうした一回きりで結ばれた贈与関係もまた立派な出会いの一種である。お遍路は概して苦痛と疲労に満ちた孤独な修行の道のりである。しかし、その中には確かに小さくとも美しいいくつもの縁が息づいているのだ。

 

本を読み終えたころにはすっかり日が沈んで、街灯も絶えた真っ暗な景色には微かに日中降りつけた雨の名残だけが熱気としてふわんとたゆたっている。蒸れた木材の甘い匂いがそれに溶け合って畳敷きの部屋を充たし、鼻腔の奥深くを小さくくすぐった。

 

 

 

空気としての孤独

 

本を閉じて、毛布をきつく身体に巻き付けてあくびをした。そのとき、細く開け放しにした障子─その部屋は窓ガラス張りではない、野外との境をなすのは障子だけである。そのために夏に訪れたときは明かりを求めて飛んでくる虫の絶え間ない侵入に泣きそうになったものだ─から忍び込んでくる春の夜の寂しさが不意に心を、激しく、打ち砕こうとした。静寂の中に、几帳面な女の眉のようによどみなく張りつめた水面へ一滴の雫が落ちた、そのときに生まれた波紋が、破断というひとつの確固たる新しい状態としてその空間に永遠のひずみを保存し続けるのと同じ具合に、ゆっくりと沈みゆく私の精神に打ち込まれた寂寞への強い引力が、どこかは分からないが確実にある私の一部分を損なってしまったようだった。家を失ったカラスの鳴き声にも似た甲高い響きとともに、喪失の余波は微細な振動となって高く山の彼方まで昇っていった、そして、その作用の初めから終わりまでの全てがまさしく旅情というものの正体であり、それが痛切さという言葉では到底言い表しようもないほど複雑で謎に満ちたものであると気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

痛みとともに知ったひとつの感覚がある。とどのつまり、私がトラベラーになる必要などないのだ、という感覚。私は自分で思っている以上に故郷である都市の生活に深く密着し、本質的な部分をそこに根付かせている。それがあまりに強固で、不動のものであるがゆえに、異郷との接触は、旅の孤独の中で摩擦の激しい痛みを私にもたらし、旅情というひとつの実感としてじくじくといつまでも残り続けたのである。つまり、私がトラベラーとして、旅と一体になることはないということだ。

 

 

昨夏の来訪の際、松山にある美術館で一枚の絵葉書を購入した。『白毫寺』という作品のものである。そのときちょうど企画展のひとつとして美術館に飾られていた作品でもあった。画面の半分以上を埋め尽くすのは苔の生えた石段。それを昇った果てに、両脇から鬱蒼とせり出してくる木々に挟まれるようにして寺の門がひっそりと口を開けている。空はうっすらたそがれる夕刻。日中ひとしきりさざめいていた威勢のいい蝉時雨が徐々にひいて、代わりに山道を支配しつつある静けさの中に、たなびくようにしてひぐらしの細い声だけがきこえてくるようだ。乱立した木々の幹にその声は何度も反響して、木々が楽器の弦のように細かく震える。振動は幹から枝、宵闇に浸りかけた無数の葉々へと伝わってゆき、やがて空気全体へと広がって夏の底を揺るがす、そんな音がする。猛禽類に襲われた瀕死の雀を両手に抱えてどこか明るい場所へと逃げ込もうとしていた遠い昔のある日、私は確かにそれと同じ音を聞いたと思う。

 

山門はそろそろ閉まろうとしている。こんな時間に一体誰が来るというのだろうか。門の向こう側にまた見通せる石段の終わりなき連続は、一日の終わりと不在の予感とともに滲む黄褐色の筆致に溶け入り、そこに確かにいるはずの平山自身の孤独と混ざりあって温度を生む。

 

午後の光さす建物の、冷っこい空気の柔らかく張りつめた一角で私はそれを見て泣いた。絵の放つ温度があまりに耐え難く、うす暗い痛みに満ちたものだと感じたからだった。孤独は、確かに居心地の悪い感覚ではなかった。自分の、他の何者からも独立してある呼吸を確かめることは必要なことだと思うからだ。しかし、彼がすでに疲れきった老人でもない限り、だれにとってもそれを長く続けることはできない。

 

 

孤独、というのは水に深く潜る行為に似ている。遮断された感覚の中で、厚ぼったい皮膜に身を隠したまま、自分の心臓の音だけを聞く。心音は呼吸の予感、呼吸は心音の証明である。見渡す限りの黒に近い群青。過去からも未来からも逃れ、つかの間に表れた現在の精神的な輪郭を体全体でなぞる。前も後ろも、右も左もない。そこには深度だけがある。深いプールの底から息を吐いて水面を見上げると、自分の吐いた泡に紛れて、素早く泳ぎさる数匹分の魚影や、もう忘れてしまった誰かのゆらめく脚、消え失せたはずのガラクタなんてものが浮かんでいるのが見えるだろう。彼はそれに向けて手を伸ばしてもいい。伸ばさなくたっていい。彼のことなんて誰も見てはいないのだから。

 

潜水は、しかし、あくまで一時的な状態にすぎない。そう長くない時間が経ってしまえばそれは死活を揺るがす苦しみになる。身体は呼吸を求め、手足の痺れ、目眩、生きることを許さない沈黙の壁。浮上するタイミングを間違えればもう二度と光のもとへと顔を出すことは叶わない。

 

人がときどき旅を求めながら、それでいて必ずそれに終わりを設け、経験を生涯の分岐点でなくあくまでも旅のままで終わらせようとするのは、自らに適切な浮上のタイミングを過たず計ろうと試みているからなのだと思う。彼は日常生活に戻り、潜水の後でなおいつも通りの呼吸をしっかり覚えていることに安堵すると、再び次の潜水の機会を密かにうかがい始めるうのだ。。延々と繰り返される日常生活の営み、不意の潜水、浮上、のち再び生活へ…。その長いサイクルの中で、人は社会との、あるいは自分自身との適切な距離感を掴んでいる。したがって、旅は日常生活の不意の陥没として確固たる始まりと終わりとを含んでいるものであり、その在り方の旅において我々は必ずしもトラベラーであろうと努める必要はない。トラベラーが異常な深度への潜水を試みて肺をパンクさせたある種不幸な潜水夫であることを考えれば、旅と自分自身との距離に失望し、不意に鈍い痛みを感じてしまうのは、むしろ心身が適切な潜水状態にあることを示すサインであるとも言えるのである。

 

 

その発見は私を納得させ、安堵させもしたが、同時に、私はより強くなった旅情の感覚に苦しみ、ひどく長大に間延びした谷間での夜に向き合わなければならなくなった。電気を消して、壁を背にしてぎゅっと身を縮める。長い時間をかけて谷間に沈殿し、重油のように地面の下方によどんで固まった強固な夜の闇。冬の到来を予感した入院患者のように、暗く、深い、ため息をついた。夜は軋みをたてて下方を流れ、時折氾濫して私の喉元までせり上がってもくるようだった。

 

 

 

 

おまけ 旅行レポその他

 

今回の旅はほとほとグルメに恵まれなかったと思っています。

到着日の昼は伊予の郷土料理だというさつま汁を注文。ぬるいご飯に鯛をすり潰したペースト状の冷や汁をかけて食べるのですが、絶妙な温度と薬味のキュウリの青臭さとでネコの餌を食べているみたいでした。上から見るとそうでもないのですが、実際はセブンイレブンもびっくりな上げ底容器。これで1500円は明らかなぼったくりです。残念、というより悲しい気持ちになりました。

 

 

晩御飯はふもとのスーパーマーケットで購入したサトウのごはんとニラレバ。集落で唯一確実に食べ物をゲットできるお魚屋さんは雨のためか閉まっていて、そこの焼き鯖をあてにしてオカズを減らしたのが仇となりました。今回の旅の目的のひとつに焼き鯖を食べることがあったのを考えると、なんとも後悔の残る結果となったと言えるでしょう。ただ、集落にもコンビニの一つや二つあるだろうと高を括って何も持ってこなかった前回と比べれば遥かにマシというもの。あのときはふもとの飲食店が開店するまで空腹を紛らそうと、猛暑の中あてどない散歩に耽らなければならなかったのですから。

 

2日目の昼は松山に戻って地元の中華料理店。

回鍋肉の昼食セットを注文、美味しいしヴォリュームもあってお得だとは思いましたが、最後の一口を食べようかというところで回鍋肉に羽虫が混入していることに気づきました。

ただ、私の旅の主目的は決してグルメではないのですし、一食二食を外したところで大した問題にはならないとは思っています。

 

2日目は大瀬の村を散策。小説では「在」にあたるところの高台で谷間の村の全景をおさめ、大江の愛したもみの木「もみえもん」を抱きしめたあとは前回解放できなかったマップを巡ります。

お寺をさらに登ったところにある三島神社、ここで御朱印を入手。(¥300)

無人なので日付は自分で書きました。

 

大瀬中学校を散策。ここの現職の校長先生が大江健三郎の甥っ子だというのでちょっと行ってみました。ちょうど校門に用務員さんがいらっしゃって、職員室に言ってアポイントメントをとれば構内の見学も可能だと教えてくださりました。ただ、バスの時刻がせまっていたので今回はパスで。

 

 

何枚か写真を撮って外へ出ると犬を抱えた老人が登場。話しているうちに私が大江や建築が好きであること、老人が原広司設計の住宅に住んでいることが判明しました。バスの時刻が近いし残念ですがまた今度、とまたも断ろうとすると、彼がふもとの駅まで車で送ってくださるというのです。ありがたすぎる申し出に若干気圧されつつもお言葉に甘えることにしました。それで電車の時間まで建築の間取りや採光、こだわりについて語ったり、大江の獲得したノーベル文学賞のメダルを借りて掲げるご婦人の写真を見たりしてあっという間に時はすぎ、車に乗せてもらってお暇とさせていただきました。

 

 

松山に戻ってセキ美術館へ。

当館は私の最も敬愛する日本画家、加山又造の作品を多く収蔵していて、前回の来訪の際に『日輪』や『飛ぶ黒い鳥』などの素晴らしい作品を観ることが出来ました。今回は春向けのラインナップということで、図録で何度も観ていた『夜桜』が展示されていると知り、来訪を決意。そもそも今回の旅行の目的もそれを見ることにありました。

セキ美術館は道後温泉街から少し歩いた閑静な住宅街に佇んでいます。門戸は狭い路地に開かれ、来訪者もそれほど多くはありません。外観は施設というより立派な住宅という趣で、少し豪華なギャラリーというのに近いかもしれません。

 

むしろ東京の美術館の広さが暴力的なくらいなのですし、混雑のなか一度であんなにたくさんの絵を鑑賞させてくるなんて正気の沙汰ではないのです。例えば複数回通ってひとつの企画展を見尽くすにしても、チケットは通えるほど安くもないですし、かといって一度に見られるようなヴォリュームでもありません。作品は量の中に圧殺され、都市のペダンティズムの中で無限に複製、陳腐な文脈の花吹雪となってゴミだらけの道路に舞い落ちるトイレットペーパー以下のカストリコンテンツに成り下がってしまいます。

その点セキ美術館はそもそも規模が小さく、展示作品数も50あるかないかくらいですから、一つ一つの作品にじっくりと時間をかけて向き合い、その全てになんらかのイメージを生成することができるのです。

絵画だけでなくロダンの彫刻、オルゴールなどの常設展示もあるので本当に面白いところです

『夜桜』の感想は長くなるのでまた今度。

その後はまた歩いてご主人様におすすめしていただいた正岡子規記念館へ。施設内には一般の方の作った俳句がずらり。俳句という不自由きわまりないオールドメディアを愛している人がまだこれだけいるということに驚き、嬉しくなりました。すぐ神だの世界だの言い出す妙な西洋詩に比べれば平易で質実なのかもしれません。(かといって俵万智以降の「おもしろTwitter」みたいなアイデア俳句の跳梁跋扈する風潮も好きではありませんし、最果タヒみたいな、言うのに一行も必要ないことをかさ増しかさ増しして薄っぺらな子どもの恋愛ポエムに(逆)エラボレイトしたドッキリテクスチャー俳句も嫌いです。)

 

私の大学の先生が子規の『墨汁一滴』を非常に、日本文学の極点のひとつに位置づけてすらいるくらい愛好していらっしゃるので、もともと興味を持っていた子規について知る機会があったのは素晴らしいことでした。展示は子規の生涯や文壇との関係というのが主で、非常に地味で真面目なものでしたが、好きな人には楽しいと思います。私はかなり満足でした。教えてくれたご主人様ありがとう♡

 

そんなこんなで旅も終わり、帰りの飛行機で突如発現した激甚な高所恐怖症に顔を真っ青にしながら帰宅しました。あれは恐ろしい時間でした。飛行機ってなんで浮いてるんだ?

 

 

 

最後まで読んでくれてありがとうございました☆

終わり。