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6/1 『黄鶴楼送孟浩然之広陵』、叔母の肖像。

うゆです。長いですが、ぜひ読んでください。ブログを読んでくださっているという声が多くて本当に嬉しいです。いつもお時間を割いてくださりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『黄鶴楼送孟浩然之広陵』、叔母の肖像。

 

溜まっていた課題を一通り片付け、久しぶりに千葉の実家へ帰った折のことだった。部屋掃除をしていると、学習机の引き出しの奥から封筒に入った一通の手紙を見つけた。

 

 

手紙は叔母からのものだった。母方の祖父の、4つ上の姉にあたる人である。封は空いていたが、読まれた形跡はなかった。もしかしたら、同封されていた祝い金だけ抜き取って、手紙には気づかないまましまい込んでいたのかもしれない。

 

 

縦長の細い便箋で3枚。上等な紙片はしっとりと私の指先に馴染んだ。長い手紙ではなかった。そこには叔母の細く上品な筆跡で私の大学合格を祝福する旨、手紙とともに祝い金を包む旨、そして環境が変わっても身体を大事にするようにと、最後は素朴な励ましの言葉で結ばれていた。つまりは老成した大人が親戚の子供へ出す手紙であり、それ以上のものでも、それ以下のものでもなかった。ただ、その中で私が全く無関係の地方の国公立大学へ合格したことになっていたことを除けばの話だが。

 

 

「素晴らしい学校です。今年は東京からの受験生も多かったと聞いています。よくがんばりましたね」その一節を、果たして本来の叔母らしさがよく表れているのだと捉えるべきか、あるいは反対に失われてしまっているのだと捉えるべきか、私にはどうしても結論を出すことができなかった。

 

 

私は手紙を元通りに並べて便箋へ収め、また同じように文房具やらガラクタやらでいっぱいの引き出しの奥へしまった。そして古い書類の類で散らかった机の上の整理を再開しようとして、手を止めて顔をあげた。しめきったカーテンがくぐもった陽を透かして薄い乳色に光っている。黙りこくった部屋、午後2時50分。それはちょうど、昔通っていた小学校の帰りの会が終わる時刻にあたることを思い出した。部屋掃除はあとにして、少し散歩に出ようと思った。

 

 

外へ立って身震いした。長袖のTシャツ1枚では少し肌寒かった。午前中に降った雨のせいで路面は濡れ、辺りには土や草の匂いが微かにたちこめていた。上空はまだ雲に覆われていて、そのせいか街全体の音がくぐもったように響いている。耳を澄ますと、2ブロックほど行ったところにある踏切の警告音が聞こえ、その少しあとに列車の通過するリズミカルな音が立った。空気の澄んだ冬の夜には自分の部屋からも列車の走行音を聞くことができた。まだ幼かった頃、眠れない夜にこの世界に一人ぼっちで起きているような不安に襲われるようなことがあると、まだ人が起きて生活していることを証明するその音を聞こうとして、しがみつくような気持ちで耳を澄ませることがあった。私は懐かしいような気持ちでその音を聞いていた。空の高いところを名前の知らない鳥が滑らかな曲線を描いて飛んでいった。鼻で大きく息を吸うと冷たく湿った空気が鼻腔を駆け巡り、吐き出すと気持ちよかった。

 

 

叔母の家まで歩くことにした。徒歩では3.40分ほどかかるが、歩けない距離ではない。祖父には姉が2人あって、あの手紙を送ってくれた叔母は上の方だった。私は母に倣って2人の叔母のことを住んでいる場所で呼び分けていた。東京に住む次女は「東京の叔母さん」、そして千葉に住む彼女は「千葉の叔母さん」という具合に。子どもも作らないままに夫に先立たれてしまってからは、「千葉の叔母さん」である彼女は千葉に建てた夫婦の家にずっとひとりで住んでいた。そのため、私の母が20代の頃、船橋にある職場への通勤のために何年か下宿させてもらっていたと聞いたことがある。それから、私がまだ小さい頃は、一人で私の世話をしていた母にどうしても私を置いておかなければならない用事があったとき、ほど近くに住んでいる叔母のもとへ私が預けられるというようなことがしばしばあった。つまり、私が叔母の家を訪れるタイミングというのはそのような場合に限られていたわけなので、私が小学校の高学年にあがり、一人で留守番もできるようになってからは彼女に会うことも滅多になくなっていった。

 

 

最後に彼女の家に行ったのは10年以上前のことなので、上手く場所を思い出せるか不安ではあったが、分からなかったら分からなかったでいいと考えることにした。なんにせよ私は、手紙という形をとって突然自分の記憶へ転がり込んできた叔母という存在に、とにかく何かしらのやり方で応答したいと思ったのかもしれない。

 

 

町を大きく縦にぶった斬る県道を越え、かつて家族の記念日によく利用していた小さなケーキ屋の前を通り、小学校の6年間通っていたテニスクラブを横目に見て、私は時間とともに体の芯に響いてくる寒さを楽しみつつ歩いた。途中、自転車に乗った幼なじみの母親とすれ違った。髪も伸び、見た目も変わってしまった私に彼女が気づくことはないようだった。私が軽く会釈をすると、彼女は訝しげに眉をひそめて会釈を返してくれた。

 

 

 

 

叔母の家は地方チェーンのスーパーの裏手に広がる雑木林の小路を抜けた先のエリアの、特に急峻な坂道の中腹にあることを古い記憶で何とか覚えていた。車だと迂回しなければならない道だが、徒歩や自転車なら近道して行ける。私は記憶の通りに道をなぞり、木立の中を歩いた。風が吹くたびに水滴を貯えた葉々が身を震わせ、降り忘れたのろまな雨のようにおずおずと私の体を濡らした。都市の中で空気はお世辞にも清浄とは言えなかったが、深呼吸すると懐かしい匂いが肺中を満たすのが分かった。都市の汚れた空気そのものが私自身の過去を保持する記憶装置としてあった。しばらく気管支を患っていたせいで奥で痰がつまってゴロゴロと不快に震えている。大きな咳を2回して、私は再び叔母の家へ繋がる小路を歩き出した。

 

 

叔母の家はあった。記憶通りに、当たり前のようにそこにあった。ただ私は、一見当然に思えるその一致が、実はきわめて困難な状態でもあるのだということをよく分かっていた。二階建ての古い一軒家。瀟洒な門扉の向こう側に覗く庭には低木や雑草が奔放に生い茂って、常に建物を影で覆っている。築造は70年代くらいだろうか、吹きつけのモルタルとレンガの合わさったような重厚な見た目。ガレージに車はなく、代わりに午後の光の中にあってなお流出しない強固な闇を宿している。カーテンは閉まっていて、窓際に置かれた猫のスタチューが永遠にその形を留めたまま、家の完全に沈黙した時間を象徴するように埃をかぶっていた。

 

 

私はインターホンを押した。チャイムのごく小さな音。どうしてか急に風景全体が大きくなって、私を上からすっぽり包み込もうとしているように感じた。

 

 

 

 

 

叔母の応答はなかった、もっともそんなことは百も承知ではあったが。叔母は不在である、そのことを私は前もってはっきりと分かっていた。街は静かだった。郊外のありふれた住宅街に人影はまばらで、時おり自転車に幼児用座席を乗せた女性や、老人用の小さなキャリーバッグを押してゆっくり歩く老婦人が過ぎていくくらいだった。私は何も言わずに門を開けて庭へ入っていった。

 

 

土は湿っていて柔らかく、体重を乗せると少しへこんだ。庭を上も下も覆い尽くす植物のおかげで私は少し立ち入っただけでほとんど完全に外の道路からは隔絶されてあることができた。庭の内側から見通す道路は長いトンネルの向こう側みたいだった。庭には長年の風雨にささくれだったベンチがひとつ置かれてある。

 

 

庭に面したリビングの窓のカーテンは半分ほど開け放されていて、そこから家の中の様子をうかがうことができた。居間は私の記憶とそれほど変わっていない。窓のそばにはかなり背の低いテーブルを挟むようにテレヴィ台と3人がけのソファ、その隣にロッキング・チェア。ロッキング・チェアの上にはクッションが何枚も重ねて置かれていて、それに深く腰かけて毛布を膝にかけた叔母が、まるで長い物語を紡ぐ神聖な語り部のように見えたことを思い出す。奥には食卓、椅子は4脚。叔母はなにより円卓を囲んで食事をとることを好んだ。─こうすれば肘が当たらないし、みんなの顔も見えるでしょう?

 

 

そして居間の中で最も目を引くのは壁。そこには大きな中国風の塔のような建物を正面から見上げるように描いた油絵が架けられている。それは土のような色をした五重の塔である。建物の向かって左側は傾いた陽の光線に当てられて秋の田園のような堂々とした黄金色に照りかえり、庇の内側に凝縮した濃厚な闇とはハッキリとした対称をなしている。さらに各層に作り込まれた庇の先は、建物の柱に合わせて左右3つずつ、上方へ向かうように伸びて鋭く反り返っていて、そのために建物全体のフォルムには尾羽根を広げたオスの孔雀のような息を飲むほどの威圧感すらある。まだ幼かった私が叔母へこの建物の名前を尋ねたとき、叔母は塔の最上部に美しい黄色であしらわれた文字を読んでみるよういたずらっぽく言って、小さな私がそれを読めるようにだき抱えてくれた。しかし私は結局それを読むことができなかった。それは奔放な草書体の漢字で書かれていたから。読めるわけがないと文句を垂れる私を床へおろし、そうだよねぇと困ったように叔母は笑った。そしてしゃがみこんで私の狭い背中に人差し指をあて、一音一音確かめるようにその名前をつぶやきながら「黄鶴楼」の3文字をなぞってくれた。叔母の優しくしわがれた声で紡がれる異国風の不思議な響きを、私は今もありありと思い出すことができる。

 

 

「こう かく ろう」

 

 

記憶をなぞりながら呟いた吐息で窓ガラスが曇った、その向こう側にぼやけた黄鶴楼が見える。私はガラスが曇らないよう口に手をあて、顔をほとんど触れるかというくらいガラスに近づけて、静かな日常生活の傍に留め置かれた黄鶴楼の見事な肖影を長いこと見つめ続けていた。

 

 

叔母は漢詩を愛する人だった。あるいは、愛することができるだけの素養を持った人だった。それには夭折した彼女の夫が少年期に満州で抑留されていた経験を持っており、そこで習得した中国語を活かして中国人学校の日本語教師という道に進んだ人であったことと関係があるだろう。母に預けられた私が、持ってきた本を読み飽きたり、自由帳へ絵を描くのに疲れたりしてソファに寝転がると、叔母はそんな私に寄り添うようにしてロッキング・チェアに腰掛け、ある漢詩の一説を書き下しで朗読してくれたものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        

見                        

                        西

                        

                        

際                        

流                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

故人西のかた黄鶴楼を辞し

煙花三月揚州に下る

孤帆の遠影碧空に尽き

唯見る長江の天際に流るるを

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは李白の有名な七絶句の詩歌

『黄鶴楼送孟浩然之広陵』(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る)

である。詩仙とまで呼ばれ、漢詩の最高峰を頂いた名人の李白が、遠い揚州へと船で旅立ってゆく詩の友・孟浩然を黄鶴楼から見送る景色を描いている。幼い頃の私はこの詩が表している言葉のほとんど何一つも理解できてはいなかったし、そもそも内容を理解しようともしていなかった。ただ叔母がまどろみの「天際に流れてゆく」私を、覚醒の此岸から見送るための子守唄のようなものとして、几帳面に編まれた韻律にゆったりと心を揺らしていた。しかし一つだけ、一行目に重々しく挟まれる「黄鶴楼」という言葉の響きだけはあの絵画の存在もあいまって明確な輪郭をとって脳裏に浮かぶようだったのであり、ソファに寝転がって体を丸めた私は、李白という遠い時代の遠い国の人もあの絵のような景色を見たのだろうかと想像し、李白と私、全く無関係だったはずのふたつの生命が一枚の絵を介して交差することのえも言われぬ不思議さと喜びに胸をいっぱいにしていたのだった。

 

 

 

 

祖母の朗読はその後も続いてゆくのだが、私は彼女が決まって一番初めに読む黄鶴楼の詩歌だけを今でも、諳んじることのできるほどに鮮明に覚えているのであり、自分にとって美というものが一体いかなるイメージをとって現れてくるのかを考えたとき、決まって脳裏に浮かんでくるのもあの絵だった。別れの重大な沈黙と、それに連なる空虚の中で圧倒的に現前する黄鶴楼の威風堂々たる広がり、そこに美を見出さずしてどこに見出せばいいというのだろう?

 

 

私は庭の裏手に回った。そこには家庭菜園用のごく小さな畑がある。その脇には柄の曲がった婦人用の傘が突き刺してあった。叔母の腰がまだ健康だった時分は畑で彼女の育てていたミョウガをいくつかとったものだ。夏場は大量の蚊の襲撃に辟易としたものだったが。収穫したミョウガのいくつかはそうめんの薬味用に細切りにし、それ以外のものは小ぶりの瓶に入れて甘酢漬けを作るのだ。

 

 

やや黒ずんだ地下茎の蕾が、甘酢に入れた途端に美しい薄紅に染まる。その光景はまるで、長い暗闇を破る夜明けの、薄明の大地に昇りだした陽の最初の光線、あるいはそれに照らされた生命の確固たる意思が炎となって燃える瞬間のようだった。それらは一葉の花びらに似た姿をして、丁寧に瓶詰めされたあとで、狭いがよく整頓されたキッチンの磨りガラスの前に並べられた。瓶は永遠のもののようにそこにあった。永遠のもののように、永遠にはなれないまま。きっともうあそこにミョウガの瓶はひとつだってないだろう。私はかつて一つのミョウガにすら永遠を託すことができた、そして今は何ひとつ─美しい記憶にさえ─にも見ることはない。それは悲劇ではなかった。様々なものを手に入れるのと引き換えに、私が時間の中に差し出してきたもろもろの喪失のうちのひとつに過ぎなかった。

 

 

時間の中に失われていくものは黄鶴楼とて例外ではない。李白の見た黄鶴楼は1884年の太平天国の乱にあたって炎上し、現在では完全に失われている。長江の水平線にほどけてゆく孤帆の遠影を見送ったあとで、李白は果たしてその塔を永遠だと思ったろうか。そうではないと私は思う。あれほど美しい言葉の束は、失われゆくものの中にしか息づくことができないから。きっと李白は、去っていった友と同じように、黄鶴楼のように雄大なものにもまた、遠いいつかの別れの予感を抱いたのだ。

 

 

私はふと思いついて畑の脇の傘を引き抜き、庭に戻ってから開いて、ベンチに被せるように置いた。そしておもむろに背を向け、長いトンネルの先のように光る、現在の世界へと踏み出していった。私を束の間過去へ引き込んだ叔母は、即ち私に黄鶴楼のごとき黄金の思い出を作ってくれた人は、母のことも私のこともすっかり忘れてしまったまま、ホスピスの清潔なベッドの上で今にも燃え尽きようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日のアルバム

Haruka Nakamura『スティルライフ』

 

“still life”とは美術の言葉で「静物」という意味である。生活のスケッチ、そこにあるのになかったものに輪郭を与え、生命を吹き込む。時間が歌を歌う、リンゴは転がって始めてリンゴになる。Haruka Nakamuraは劇伴の作曲者としても活動していて、藤本タツキ原作の映画『ルックバック』の劇伴も担当した。あの映画自体は非常に素晴らしかったものの、オプティミズムの文脈を添えて陳腐化させたのは劇伴であるという友人の意見にもまたうなずける。私は『ルックバック』の物語を、前進する人間の賛歌ではなく、ため息とともに周回し続ける人間の哀歌だと捉えている。それにおいて、Haruka Nakamuraの編む音楽抄は少し美しすぎるのかもしれない。それでも私は彼の音楽が好きだ。美しさを求める心にしか生まれえない現実もまた、確かにあるだろうと思うから。

 

 

 

 

 

ホラーイヴェント。
13日の金曜日イベント『NTホラーナイト!』開催のお知らせ!

ちさとは一反木綿とガチ喧嘩しているので、2人を一緒に遊びに誘うときは注意が必要。

 

 

あや生誕。
あや生誕イベント開催のお知らせ!
日本国憲法によると、あやは掛け算割り算より足し算引き算を先に計算しても良い。

 

 

せりにゃん生誕。

メカせりにゃんの好きなメカ戦国武将はメカ豊臣秀吉。