うゆです。
今回は2024年版、うゆのベストバイを5つ発表させていただきます。どれも甲乙つけがたいのでランキングにはしていません。ご了承ください。
1.セザンヌ 極細アイライナーEX
永遠なんてないと思っていた。そう、セザンヌ 極細アイライナーEXに出会うまでは。
誇張を抜きにして全くなくならない。今まで使っていたラヴライナーが大抵1、2ヶ月で切れてしまっていたのに対し、これは半年くらい使っているのに未だ衰える気配を見せない。なんなら普通のボールペンよりもつ。
アイライナーを買うというのはなかなかどうして勇気と胆力の必要なことで、それはろくでもないペン1本に1500円も出さなければならない人生の侘しさとバカバカしさに向き合わされる魂の艱難である。小学生の頃は1000円もあれば1ヶ月は余裕で遊べたのに、今の自分ときたらペン1本買えないでいる。「ペイペイ!(笑)スクラッチチャンス!!w」の腑抜けた声がレジ端末から空々しく響いて、幼き日の黄金の思い出はもはや手の届かないところへ遠ざかってゆく。身震いするような不条理と孤独、私はどこで道を誤ってしまったのだろうか。
冬深し かすれたラインの 目尻燃ゆ
セザンヌ 極細アイライナーEXならそんなお悩みも解決。きっと頼もしい相棒になってくれるはず。とはいえ、別に色々なアイライナーを試してきたわけではないのでこれまでも持ちのいい製品を使ってきた人なら「普通じゃね?」となる可能性も大いにあるが。
2.こと九条ネギ130g
これすごい。使っても使ってもなくならない。アイラインもそうだが、私は永遠なるものに憧れがあるのかもしれない。あまりに減らないので、パックの底を観察してネギがこんこんと無限に湧き出るきしょい異世界の入口を探してしまったくらいだ。
これまでは惰弱な保守性に基づいて35gくらいの小さい刻みネギのパックを購入していたのだが、薬味(!)ジャンキーの自分にかかれば、あんなものはわたあめよりも早く、はじめから全部夢だったみたいにとけてなくなってしまう。そこで、ようやく奮発して、というか当然大きい方が幾分かオトクなのだけれども、ビッグサイズの九条ネギパックを購入してみたところこれが大ヒット。丸亀製麺のネギコーナーを想像していただきたい。ほどよく詰まっていて見た目よりかなりヴォリュームがあるので、どんな料理にも気にせずガシガシのせられる。うどんなんかは言うまでもなく、トルティーヤにも、うな重にも、揚げベイブレードにも、焼きムーミンにもなんでもござれだ。35g版とは異なり深さのあるパックの形状も影響しているのだろうか、これほど気兼ねなくネギをふりかけられる環境にいることこそがヒトとしての幸福である。いいかい学生さん、ネギを好きなだけかけられるくらいになりなよ。
3.Marshall スピーカー Middleton Ⅱ
私は「表現を受容することに金と手間を惜しむなかれ」という生活上のポリシーを持って(持とうとして)おり、当然音楽も例外ではないので、ホームプロジェクターを買うのにあわせてスピーカーもそれなりにいいのを買うことにした。結局選んだのがこのMarshall Middleton Ⅱで、上を見はじめればキリがないが、現実的な範囲で最良の選択ができたと思っている。Marshallといえば言わずとしれた有名なアンプメーカーであり、したがってこころなしかロックの音がいい気がする(あくまでも、気がする、としておく)。迫力はありつつも徹底してクリアな音声で、重なり合った各要素がそれぞれエネルギーを持った立体として運動する。一人暮らしには音量が必要以上に大きすぎる気もするが、近隣に迷惑がかからない程度に大好きなRadioheadやゆら帝なんかをかけて毎日楽しんでいる。最近はCorneliusの「Audio Architecture」を聴いてヨダレが止まらなかった。
据え置き型の同価格帯のものと迷ったが、来客が多くスピーカーを移動させる機会を鑑みて、Bluetoothタイプで重量2kgのこちらを選んだ。何よりアンプをイメージしたデザインが素晴らしい。ひとつのインテリアとしても部屋に馴染んでいる。例えば音質ならJBLも悪くないのだが、いかんせんデザインがガサツだ。スピーカーというのはやはり居住空間を期待で満たすようなものでなければならない。
また、先述した通りこれを購入したモティヴェーションのひとつはホームプロジェクターとの併用というのもあって、映画を見るときにも大活躍している。個人的に、映画は音声を楽しむものだと思っているので、セリフや効果音の底に沈んでいる「ザー」というノイズのようなものまで聴くことができるのが良い。タルコフスキーや濱口竜介みたいなのを観るのもいいが、ホラー映画もまたひとしおである。本体でイコライズもできるので、音楽を聴く時は重低音を、映画を観る時は中高音を強くするなどして調節している。現在同じものをもうひとつ購入することを検討中である。
ここでCM。今週末3/8(土)はNewtypeの狂犬、あやちゃんの周年イヴェント!
あやが主役で盛り上がらないわけがない。当該時間帯のNewtypeには治外法権が適用されます。
日頃のストレスを癒したい方、大盛り上がりしたい方、そして何より激カワあやに会いたい方、ぜひ足を運んでみてください。ただ、くれぐれも体力だけは万全に。でないと「持っていかれ」ますからね。あやと飲むのは楽しいよ。
4.詩集『青空』 吉増剛造
吉増の詩集については代表作の『黄金詩篇』をずっと探していたのだが、なかなか見つからないので中野ブロードウェイにあったこれを購入した。無駄に初版本だったせいで5000円くらいした。ただ、状態はものすごく良くて、製本もしっかりしているので何回でも気兼ねなくページをめくれる。私はページを折ったりページに書き込んだりして結構ガシガシ本を読み潰してしまうタイプで、小説は基本的に安価で扱いやすい文庫のものを買うのだが、詩集については案外単行本の方が良いかもしれないと思うようになった。というのも、一度読み通した詩集を読み返すときは前後に関係なく適当に開いたページを読むことが多いため、わざわざページを折るという試みがそこに発生しえないのだし、好きな詩は基本的にノートに書き写しているので本体に書きこむ必要もないわけだ。それに、詩は行間やページの空白を含めた空間的な製品として楽しむものだと考えているので、見開きのページによって表される「画面」はできるだけ大きい方がいいとするのも至って自然なことだ。そういうわけで、長く付き合い続ける詩集として単行本を選択することの明らかな意義を見いだせたきっかけとしてこの製品を私は愛している。好きな詩人なので内容に関しては言わずもがなだが、それを話すと長くなるのでここでは割愛する。
5.RANDA 携帯傘 ノヴェルティ
物心ついたときから傘という文化そのものが大嫌いで、意図してそれらに背を向け、雨が降っても滅多にさしてあげない、忘れたことに気づいても取りに帰ってあげない、など、もはやほとんど病的なまでのストライキの姿勢をとることによってその存在に対するカウンターをしていた気でいた。特に折り畳み傘なんてものはもってのほかだった。不意に降りつけた雨なんかに、したり顔で折り畳み傘を取り出す人を横目に見て、「けったいなやつ!」と心の中で舌打ちをしながら自分は雨に濡れながら歩くのは昔から自分の中の確固たる意志だったし、ある種の誇りとして捉えてすらいた。愚にもつかないシャカシャカした袋から引き抜いて(あまつさえ使用後には傘を再びそれに入れ直すというのだ!)、どうせすぐ壊れるくせに無駄に精巧な骨組みを恐る恐る展開させて、ずっと入れていたせいでカバン臭くなった、シワシワで薄っぺらい、モグラの糞のように卑小な布地で自分の身を覆い隠そうとする、それは人として最も恥ずかしいことだ、俺たちはきっと地底人がこの地球にいたらそいつらを日陰者とよんで盛大に蔑んでみせるのだろうが、俺たちも大概だ、ちくしょう、このザマを見ろ、ほら、普段会社で偉そうな顔をしているあいつだって、折り畳み傘を畳むのに妙な突起を押し込むときは、手を挟まないように恐る恐るやるんだ、どんな立派な人間でも折り畳み傘をたたむのは怖いんだ、そしてそうした営みの一切の根源たるつまらぬ棒状の原初的発明を、人間は小さなカバンに入れて常に持ち歩いて、自分の卑小さを世間に開陳する機会を、毒入り団子にありつこうとするネズミの列のように、今か今かと馬鹿みたいに待ち続けているのだ、ああ、どうかいま宇宙人が地球にやってきませんように!そしてこの瀕死のロバみたいにこそこそ身を隠して生きる人類と、その文明一切を見て、その内奥にどっしりと据え付けられた卑屈を看破してしまうことのありませんように!
結論から言えばその実感はまるきりの虚妄だった。むしろそこにヴィールスみたいに仕込まれた敵意の一切は、本来なら日傘をささないという尊大に肥え太った自意識と根拠のない確信に向けられるべきものであって、私は日傘の購入という、自分にとっては歴史的コンヴァージョンとなる大決心をようやく果たすことによって、その不可視の牢獄から自らを救い出すことに成功したのである。きっかけは、意識的にしろ無意識的にしろあまりに傘をなくしすぎて家に傘が一本もなくなってしまったという誠にろくでもない事態に直面したことで、どうせだったらかわいいものを買って、「傘」という全体でなく、独立した製品としてある固有の関係性に愛着を持とうと努める試みの中で、あなたは本当の傘の価値を知るのよという友人の助言を受け、購入に踏みきった次第であった。傘くらい女の子女の子していてもバチは当たらないだろうという腑抜けた擦り寄りのもと花柄とフリルを選択基準とし、最も理想的なものとしてこのRANDAのノヴェルティである日傘をインターネット・ショッピングで購入した。そして、とてつもなく便利なことを知った。
これは雨傘としてだけでなく日傘としても使うことができ、近年のきわめて邪悪ですらある激烈な陽光から身を守るのに適している(色合いのために遮蔽性能が低いのはご愛嬌である)。最大の懸念点としてあった、傘を畳む時に押す刃のような突起。あれはプラスティックのパーツによってコーティングされ、指の肉を挟むことへの深甚な恐怖心と自尊心を都度格闘させる必要もなくなっていた。小学校低学年以来、実に十数年ぶりに対峙した折り畳み傘は、思った以上に取り回しやすく、便利な、親切で好感の持てるパートナーだった。もう臆病と罵られてもいい、いやそもそも折り畳み傘をさすことは臆病なことではない。人類の叡智と不断の努力の結晶をさしかまえ、ショーグンのように街道を跋扈する、折り畳み傘こそ人類の誇りを他の何よりも明白に象徴する「モーゼの杖」なのだ。さあ宇宙人よ来い。君たちが人類について知りたいのなら私が答えてやる。
「人類とは、傘を発明した生命体にほかならぬ。」