うゆです。
江戸時代後期の医師で蘭学者です。大阪で蘭学塾「適塾」を開き、福沢諭吉など多くの人材を育成しました。また、天然痘の予防接種(種痘)を普及させ、一応コレラ流行時には『虎狼痢治準』を著して治療法を示しました。褒めるほどのことでは…💦
今日は今年聴いた音楽を国民の皆様にシェアしたいと思います。
今年1番聴いた曲&アルバムはHaruka Nakamura の『スティルライフ』でした。作業用としてずっと流していたためかトップソングのほとんどがこのアルバムの曲に侵食されていたので、ランキングとしては全然面白くない結果と言えるでしょう。「Atom Heart Mother(牛)」以外全部同じアルバムです。逆になんで牛さん一匹だけそこにいるんでしょう。
Haruka Nakamura自体には映画『ルックバック』の劇伴についてかなり思うところがあるので手放しで好きとは言えないのですが、それはそれとして『スティルライフ』はポストクラシカル、アンビエントとしてめちゃくちゃいいアルバムです。レコードも買いました。


トップアーティストは毎年恒例の教授で、これはもちろんピアノ曲を作業用に聴いていたのもあるし、中期以降のアンビエント、エレクトロニカをめちゃくちゃ聴いていたのでいつも長い時間を、恐らくリアルで会っている人の誰よりも長い時間を共にしています。一番聴いたのはやっぱりアンビエントで、最後期に作られた『12』でした。是枝裕和の『怪物』のサントラにもなっており、完成度があまりにも高いです。
最近教授のベスト盤の重量版をレコードプレーヤー本体と同じくらいの価格で購入しました。大学近くのコーヒー屋に持ち込んでゼミの人たちと聴いたのがめちゃくちゃいい思い出になっています。
去年はVelvet undergroundとゆら帝が多かったのですが、今年はいずれも日本のインディーズであるbetcover!!と踊ってばかりの国が多かったみたいです。Pink Floydはもっと聴いていると思ったのですが、多分レコードの方で聴いていたのだと思います。インスト、アンビエントだとブライアン・イーノや石橋英子をよく聞いていましたが、入りませんでした。Radioheadが多かったのも意外でしたが、夏にNewtypeを休んでいた時期に聴きまくっていたためかもしれません。夏なのにRadioheadを聴くなんて!と思うかもしれませんが、あのときの私は本当に気が滅入っていたのです。

こういった形で振り返る1年があっても楽しいですね。思い出に残ることと言ったら、大抵人と遊びに行ったことや何かしら爆笑した瞬間というのが主でしょう。反対に、なかなか座れない電車での時間とか、一人で部屋の中ウジウジ悩んでいただけの一日とか、そんな時間は何の引っ掛かりもないまま忙しい時間に洗い流されていってしまうものです。
でも、そんな時間にも私は確かに生きていたのだし、むしろそちらの方が生きることについて深刻に考えていたはずだという気がします。きっと今日という日を死ぬ時に思い出すことはないのだろうと絶望的に確信し、それでも何事も成せない自分を憎み、窓の外で無情にも暮れてゆく空に憎まれ口ひとつ叩けないでいる。ゆっくりと、しかし確実な速度で下降し続ける落窪んだ谷底のような時間。でもそこに音楽はあった。
ふと懐かしい音楽を聴いて、大小様々な花がワッといっせいにひらくように、忘れてしまったはずの思い出が突然いやというほど蘇ってくることがあるのは、きっと音楽がそのように容易く流れ去ってしまうような弱々しい時間にも慈しみ深く接地していて、いつか必要なタイミングが来たら過たずそれらを拾い上げてくれるからなのだと思います。
平凡であることはときに無意味であることと結びつけられ、果ては無価値であるとすらみなされて、いつしか忘却の深い闇の中に唾棄されてしまいます。何もできなかったこと、失敗に終わってしまったこと、私という人間はそうした経験にも満たない経験をどうしても憎んでしまうようでもあります。しかし、生きている時間のほとんどはそうした瞬間によって成り立っているのであり、それらを一意に無価値と切り捨ててしまうことは私が私としてあることの決して見過ごせない部分をまた切り捨ててしまうことにもなるのです。平凡である瞬間の自分に目を向けることこそが、本当はもっとも困難な道のりであり、密度の高い生を生きるために必要なことなのに。
『WANDA』(1970)という映画があります。これはバーバラ・ローデンという女優が監督として生涯に一作だけ撮影した、非常にミニマルなインディペンデント映画です。中心的な関係者はおおよそ5人。ローデン自身が中心人物のワンダを演じたほか、役者のほとんどは夫をはじめとする身内か、その場で雇ったエキストラを採用しています。もちろんアメリカ本国で高い評価は受けませんでしたし、BFIが2024年に「偉大な映画ランキング」を劇的に更新するまでは、一般的に知られることもあまりありませんでした。

1970年のアメリカで女性を主人公として作られた映画ということで、本作はそもそも大変意義深い作品ではありますが、それよりもまず、中心人物となるワンダ自身がそのように意義とされるイデオロギーの一切に対して無関心であり、腹立たしいほどに愚かであることが特筆すべき点なのだと思います。家庭の手伝いもせず、金を無心し、我が子の親権を巡る裁判には遅刻したうえに煙草を吸いながら現れ、男に騙され、置き引きにあう。結局偶然の成り行きで強盗の片棒を担がされることになるのですが、それでも彼女は何ら目立った自己表現を行わない。主体性というものをそもそも持たないまま、ただ流れのままに漂流し続けるばかり。
彼女を見ていると嫌気が差します。『リップヴァンウィンクルの花嫁』の黒木華に死ぬほどムカついたことを思い出しますが、それ以上に、彼女の根本的な愚かさ、無関心さに腹が立って仕方がありません。
しかし、その姿こそがアメリカ人の本当の根っこにある平凡なもののあり方だったのです。60年代のカウンターカルチャー、ヒッピー文化に参加するほどの関心もなく、アメリカ・カトリシズム由来のマチズモからは軽んじられ、頼みの綱のフェミニズムは女に強くなることを強要する。そのようにしてあらゆるイデオロギーから爪弾きにされた丸裸の無思想性は、本当の平凡さとして誰にも顧みられることなく、何の記録にも残されないまま、忘れ去られてゆくばかりだったのです。『WANDA』の意義はそれをあえて拾い上げ、描いたことにあった。平凡すぎたからこそ、当時には顧みられることがなかったのです。
透明であるはずのもの、しかしそこに確かに存在しているものに輪郭を与え、名前をつけること。これほど単純なことをするのに、一体どれほどの人が言葉を尽くし、頭を悩ませたのでしょうか。また漱石やゴーゴリ、ドストエフスキーなど、文学上のブレイクスルーにもそうした平凡さへの「ひらかれ」を言葉として残した作品が位置づけられることは多いです。
話は逸れましたが、生きることの密度を高め、自分自身に対してより高い段階での充足を得るために重要なのは、本来忘れ去ってしまう類の時間に対して心をひらくことなのであり、ある瞬間を共にした音楽を思い出すことは、もはや透明になってしまった時間を過ごしていた自分とユニゾンし、その存在を再び自分のものとして抱きしめ直すことになるのです。説教くさくなってしまいましたが、今日はめちゃくちゃ酔っているのでこんな感じです。
お説教はたくさんよ!ということで。
歌詞すごすぎ。前奏が無駄に物々しいのいつも笑っちゃう。
大学受験を頑張っているときはマドンナとかシンプリー・レッドとかTOTOとかブロンディとか、80年代音楽を死ぬほど聴いていました。あの自閉の感覚も音楽を聴くと思い出す感覚というわけですな。
かのにゃ生誕が近づいています!
本当にNewtypeにいるべくしている人。いつもありがとう。
私はお昼しかいられませんが、自主的にレジギガスのコスプレをします。
詳しくはこちら ·*✧かのん19th生誕祭⟡.·

さえさん生誕は彗星のように美しく飛来します。
アフガニスタンで地雷撤去のアルバイトをしていたときは毎日の撤去数のノルマに追われて大変でした。

クリスマスがやってきます。
小学生のころキング・オブ・コメディが「ラスト・クリスマス」の替え歌をするネタで死ぬほど笑ったのですが、今思うとあんまり面白くない気がします。

セリヌンティウスの生誕もやってきます。
一緒に邪智暴虐の王を除こう!

チサティンティウスの生誕が静かに近づいてくる季節。
↑この呼び方、危ない!
