うゆです。
人より肘の関節が柔軟なので、腕をヌンチャクのように振り回して敵を攻撃することができます。
参議院議員選挙のために実家を訪れた折、父親が惰性でつけっぱなしにしていたテレビに流れていたCMのひとつに思わず目が留まった。
それはサントリーによる言わずと知れた有名ビールブランド、プレミアムモルツのコマーシャルで、一見したところグランド・キャニオンの雄大な景観を前に何やら洒脱な雰囲気を纏った3人の男女がビールジョッキを片手に談笑しているという内容のものだった。これだけ言えばそれはごくありふれた、半年も経てば誰の記憶からもまるきり雲散霧消してしまうような何の変哲もない飲料のコマーシャルに過ぎないように思えるかもしれない。ところがどっこい、そのコマーシャルには私を驚愕させ、激しい義憤にすら駆り立てるほどの極めて愚にもつかないある理解不能な要素が含まれていたのだ。
それは、そこに登場する男女が『ちびまる子ちゃん』の登場人物の20年後の姿だと説明されていたことだった。アロハシャツやらワンピースやらを身に纏い、ビールを片手に優雅に談笑する彼らは、あろうことか私たち皆にとっての長年の友人、ちびまる子ちゃんたちの無惨に変わり果てた姿だというのだ。
ここでコマーシャルから引用した画像を見てほしい。

出典:サントリー
この画像で、彼らがちびまる子ちゃんたちの未来の姿であることを見抜けた方は果たしているのだろうか。あえて断言しよう。そんなやつは絶対に存在しない。何せ彼らは私たちが彼らをちびまる子ちゃんと結びつけることのできる何らかの記号を何ひとつとして持ち合わせていないのだから。例えばまる子に赤い吊りスカートを履かせるとか、前髪ぱっつんの素朴なおかっぱ頭にするとか、あるいは花輪くんの髪型をブロンドにするとか、どこかにそういった分かりやすい「ちびまる子ちゃんらしさ」を盛り込むことは十分可能だったはずだ。それなのに何を思ったか制作陣はちびまる子ちゃんの女優に元々ボブヘアのイメージのある広瀬すずを起用しておかっぱ頭のトレードマークを更にぼやけたものにしたうえ、花輪くんには齢49のオダギリジョーを起用、花輪くんであることはおろか、彼がまる子たちの同級生どころかいわゆる「パパ」と呼ばれるパトロンなのではないかと疑わせるような印象を我々に抱かせる愚行を犯しているのだ。たまちゃんは辛うじて丸メガネをかけているが、それができるなら他の2人にも同じように象徴的な記号を加えても良かったのではないか。
なお、この記号の不一致と不明瞭性は恐らく制作陣にも自覚があったのではないかと私は思っている。なぜなら、「これはまる子たちの20年後のお話」というようなアナウンスが冒頭に流れる構成そのものが暗に示している通り、このアナウンスがなければ視聴者の誰一人として彼らがまる子たちであると認識できないことが明白であることが制作の段階で分かっていたと考えられるからだ。ちなみに、アナウンスがあってなお、私はこのコマーシャルについてインターネットで調べるまで、オダギリジョー演じる1人だけ歳の離れすぎたオジサンが花輪くんであることを認識することができなかった。
サントリー、あるいは広告代理店がなぜこのコマーシャルにちびまる子ちゃんの要素を加えたかったのかは不明である。制作インタヴューによると、
原作の人気エピソード「たまちゃん、大好き」の巻をベースにしている。舞台がニューヨークなのは、原作者・さくらももこの同級生であり、「たまちゃん」のモデルとなった人物がアメリカ在住であることに由来する。
「広瀬すず、伊藤沙莉ら起用 『ちびまる子ちゃん」×プレモルCMの狙いを聞く』」アドタイ、2025年。[https://www.advertimes.com/20250214/article489541/2/]2025年8月31日閲覧。
ということらしいのだが、ビールのコマーシャルをちびまる子ちゃんと結びつける必要性が一体どこにあったというのだろう。
サントリーは国民的アニメという素材のキャッチーさ、話題性ばかりをあてにし、それが商品の訴求にいかに効果を持つか、あるいはそれが本来どのような個性を持ち、どのような文脈の中で社会に受け入れられてきたかをひとつも考えないまま、商品や素材の固有性から全くかけ離れたところで両者を結びつけ、空疎な新規性の自己満足のみに基づいて素材を無理やり消費しようとしたのだ。それは『ちびまる子ちゃん』という作品に対してあまりに無神経であり、失礼の極みであり、暴力的な態度であると言うべきではないだろうか。
上記引用の記事にしたって、半分以上がキャスティングの狙いばかりで作品そのものについてはほとんど触れられていない。
なお、これはみんな大好き「ミツウロコ」の状況とは少々違っている。商業的な目的のために作品の有名性を利用しているという点では「ミツウロコ」も同様だが、この場合は作品の恣意的な消費というより作品と企業との提携というのに近いといえる点でサントリーとは異なっている。すなわち、それぞれがお互いに結びつきながらもあくまで独立した素体としてあり、企業は作品の個性と有名性を「借用」するに留め、不必要な解釈を加えて作品の内部を台無しにすることまではしていないのだ。サントリーがやっていることは、獲物の内部に毒液を注射し、その中身だけをドロドロに溶かして肉団子をつくる邪悪な蜂と同じである。中身を溶かされ、惨めったらしく形を留めたペラペラの表皮だけをグランド・キャニオンの熱風にたなびかせる作品の残骸は、もはや『ちびまる子ちゃん』のようであって『ちびまる子ちゃん』でない変わり果てた何かである。
また、文脈の利用というと、最近では日清食品の「シーフードヌードル」のコマーシャルが思い出される。これはヒット曲「倍倍FIGHT!」の歌詞を広告用に変えたBGMを背にアイドルたちがイカの形の風船を叩きわろうと苦戦する中、言わずと知れたアマレスチャンピオンの吉田沙保里さんが突然現れ、猛烈な勢いで風船を破裂させて回るといった内容のコマーシャルである。なお、この一見荒唐無稽に思えるような展開は、かつて吉田沙保里さんがテレビ番組内で披露した連続の風船叩き割り動画のネットミームを改変したものであり、本コマーシャルがインターネット上を中心に配信されていたことを鑑みると、視聴者層における絶妙なジャーゴンをつく狙いがあったことが容易に伺える。
ここで先ほどの「文脈の利用」という問題を本コマーシャルに当てはめてみると、これにもまたサントリーの場合とは決定的に異なる点が存在することが分かる。それは、利用する素材が明確な作者とファンを持つ作品ではなく、偶然の切り取りによって生まれ、不特定多数のインターネットユーザーが無尽蔵に共有するネットミームであったという点だ。
作品の文脈とはいわば「感情の場」である。作品が形をもったプロダクトとして人から人に伝えられ、その過程で人々の何らかの記憶や感想が多層的に蓄積することで、作品を中心に保持されてゆく内向きの輪のことだ。したがって、作品にはそれそのものに対して明確な感情をもつ内部と、そうでない外部が存在する。反面、ネットミームの文脈というのは外側に向かって無限に拡散してゆく放射状の矢印の束であると言える。矢印は外側へ、より広い大海を目指すが、それによって発生する矢印の「到達範囲」はあくまで到達した痕跡であるに留まり、決して内外を分かつ完結した輪になることがない。人はしばしば同じネットミームを「知っている」ことに対してささやかな喜びを覚えるが、同じネットミームを「愛している」ことに喜ぶ場面にはそうそう遭遇しない。それはネットミームが明確に隔てられた内外を持たず、輪郭の曖昧な「範囲」であるに留まっているためなのだ。
例えば、「野獣先輩」という一連のネットミームを思い起こしてほしい。あれは本来『真夏の夜の淫夢』という成人向けポルノ作品を中心に発生したジャーゴンの束だが、「野獣先輩」を面白いと思っている人のほとんどは『真夏の夜の淫夢』という作品そのものではなく、その周辺のミームをこそ楽しんでいる。すなわち、彼らは派生するミームの範囲上にいながら、あくまで『真夏の夜の淫夢』の輪の外部に身を置いているといえるのだ。私は異端ぶったり冗談で言ったりする以外で、『真夏の夜の淫夢』の作品自体を 愛している人を見た事がない。このように、作品の輪の内部と違い、ネットミームの範囲上にいることの喜びは、「愛している」でも「嫌っている」でもなく、ただ「知っている」ことによってのみ完結する。「だが断る」を使って喜んでいる人たちは、別にジョジョが好きなわけではないのだ。
話が若干それたようだが、この作品の「内外」とネットミームの「範囲」という性質の差異にこそ、サントリーと日清「シーフード」の違いが隠されている。日清が利用したのは「範囲」である。インターネットの拡散性という性質上、その内外に明確な線引きはなく、したがってそれを特別大切に思っている人も存在しなければ、利用されたことに憤りを感じる人もいない。つくり手というつくり手もいないのだから、それが改変されたところでそもそもダメージを受ける主体が存在しない。霞を殴るようなものである。*
*この中心を特定のミームから「ミームを生産する母体としてのインターネット」にずらすと話は変わってくる。インターネットはそのものが確固たる文化圏であり、誰かの居場所であるという性質を持つ以上、そこに内外は存在し、「何らかのインターネットミームを企業が利用した」という事実への不満は発生しうる。ただ、これは今回の話とは若干ずれているのでとりあげない。今回において重要なのは、「何らかのインターネットミームを企業が利用した」ということに憤る人がいても、「吉田沙保里が鈴木亜美を押しのけてスイカの風船を爆速で叩き割るミームを企業が利用した」ことに憤る人がいないことである。
一方、サントリーが傲慢にも手を出してしまったのは確固たる内外の存在する、それも、国民的アニメという極めて巨大な内部を持つ「作品」であった。サントリーは人々の内側の場を残忍に破壊し、勝手に遺伝子組み換えを行い、台無しにして回ってしまったのだ。実体のあるものを攻撃し、自らの利益のために搾取し、その果てにおぞましい獣の糞の100倍ナンセンスな15秒間の動画を生成する愚にもつかない無用の営み。これを資本主義の邪智暴虐と言わずしてなんと言えば良いのだろう。
私はテレビの前でひととおりこのようなことを考え、制作サイドの底抜けのナンセンスに激しく憤慨し、吐き気すら催し、ソファに座ったまま口を半開きにして眠りこける父を尻目にテレビの電源を消してそそくさと自室に引きこもったのであった。夏の盛りで、窓を開けたところでわずかな熱風が却って部屋中の空気をうだらせるばかりである。私は一人暮らしの部屋に置いたままの朝顔の鉢植えのことを一瞬考え、すぐに忘れて汗の滲んだシャツを脱いだ。
今日の1曲
踊ってばかりの国「ghost」
アイリの初出勤の日は私も一緒でした。
一緒にお散歩に行ったとき、二人で大きな声でcross-dresser!と叫んだことを思い出します。
めちゃくちゃかわいいのにずっと意味不明なアイリと、短い間でも一緒に働けたことをとても嬉しく思います。しばらく寂しくなるけど、また戻ってきたら意味わかんないことで笑おうね。
Adieu, plancher des vaches!