ボールド、イタリック体、青字で失礼します。うゆです。
最近日本橋の丸善に行き、クジラの図鑑を手に取ってから値段を見て棚に戻すというほろ苦い経験をした際、自分の一番好きな動物がクジラであることを不意に思い出しました。そして、その発見に導かれるようにして、忘れていたはずの幾多のイメージが私の頭の中に次々に開花するように出現したのです。今回はそうした記憶を混じえながら、私が最も愛する動物であるクジラについて文章を書いてみようと思います。
気が向いたらまたこの文章で問題を作ろうと思っていますが、思い出したイメージのままに書いたので一貫性に欠いているかもしれません。それではどうぞ。
鯨骨生物群集という言葉がある。
これは、鯨の遺骸が数十年にわたって分解される過程で、分解者として集合した微生物らが鯨の骨格の中に形づくるひとつの閉鎖された生態系のことだ。本来変化に乏しい場所であるはずの海底において、多様な生物の交歓の場としてあるこの生態系はまさしく海のオアシスというべき海洋研究の宝庫である。つまり、クジラは生命としての時間にフジツボや数多の寄生虫の宿主となりながら、死んでなお地球の機構そのものとしてあり続けるのだ、それはもはやひとつの生命であるというのを超えて、凝縮された円環、すなわち海がそれ自身蓄えてきた時間のあまりの膨大さに引き込まれて、ある日突然爆縮してしまうのを防ぐために結晶化され個別に保存された、海の記憶そのもののように思える。自らの脳が解像しうる範疇を圧倒するほど優れた眼を持つイカが、あるいは地球の眼の役割を担っているのだとしたら、あまりに膨大な時を超越し、個としての生命を終えてなお自然の驚くべき機構のひとつとしてあり続けるクジラは、地球史に刻まれた記憶の保存ディスクであると言ってもいいのかもしれない。
私がはじめてクジラの姿を見たのは、父が買ってきた海洋図鑑の中ほどに掲載された、見開きの大きなページの写真の中でだった。それは少なくとも私の目に生物ではなく、海流に長い間削られ続けて歪に成形された巨岩のように映った。その輪郭は大雑把かつ不明瞭で、一目でそれを形づくる器官のひとつひとつを判別することは難しい。子どものおぼつかない手つきで一生懸命こねまわした不器用な粘土細工にも見える、甚だ奇っ怪で理解し難い造形の神秘だ。そして、巨大な体躯に反してその眼は盲だ賢人の、もはや用をなさなくなったもののように小さく鈍重で、静謐な光を漲らせながらも表皮をびっしりと覆う無数の陥没に埋もれてすらいる。
かれが鼻先を潜り込ませた先から細く散開する流水の帯は、彼の傷だらけの身体を労るように柔らかく包み込みながら、彼のやってきた、そしてこれから向かっていくであろうそれをも絶望的に予感させる深い暗黒の底へとたなびいていて、私はカラーインキの粒が寄り集まって再現する途方もない奥行と陰影とに、海洋の持つ鮮やかで開放的な性質とは裏腹な、暗く深甚な重さを湛えた、凝縮された時間と未知のタンクとしての姿をまた見出したのであった。
別の思い出を話そう。祖父母の家は太平洋にほど近いところにあって、私はそこから車で30分ほど行った所の、海を見下ろす形で崖の上にぽつんと建つ展望台へ連れていってもらうのが好きだった。 時間帯もあるのだろうが(私は日の傾きかけた閉館間際の展望台へ、十分な昼寝を終えてから向かうのを特に好んだ)、基本的には施設の中に人はまばらで、寂れた観光地特有の滅菌されたような静けさが耳につんと響いて心地よかったのを今でもよく覚えている。冷たいモルタル地の壁はガラス越しの西日を反射して薄い鈍色に輝き、一日の終わりと、それに固着された風景との別れを控えめに予感していた。吹き抜けになった建物の中心を貫く螺旋状の階段を登ってゆくと、ぴったり10段ごとの段差部分に貼られた残り段数のラベルと、ラミネート加工された下手くそなデザインの施設案内とが私を出迎え、そのいちいちにあしらわれたオリジナルのイルカのキャラクターの笑顔が、施設の静けさも相まって少し不気味に思えたものだった。中2階の喫茶室は、大抵私の行く時間には既に閉まっていて、赤を基調にした80年代風の妙に気取った内装が日の名残りを包み込んで埃っぽく、しかし静かに佇んでいた。
長い階段を乗り越えデッキへ出ると威勢のいい海風が髪を巻き上げた。足腰の弱い祖父母は階段を昇っている途中だろうか、まだ私に追いつく気配はない。私はデッキ端の、海に立ち向かうように湾曲した手すりまで駆けてゆき、無数の金色を麦畑のように漣立たせる広大な海面を見渡した。どこか懐かしいような光を海へ溶かしながら沈みゆく太陽と入れ替わりに水平線の果てに夜が忍び寄り、凛とした佇まいで幾重にも連なる雲間に安穏とした終末の気配を漂わせている。そして目を細めて遥か彼方をゆく鳥たちのシルエットを見つめながら、しかし一方で展望台の辺りを周遊するウミネコの声を聴くと、たちまちあらゆる物事が距離を失い、自分が海の果てまでひと跨ぎで到達可能な伝説の巨人になったような気さえするのだった。
私は、連綿と続く漣の群れに一本の筋を引くようにして進む汽船の、遠目からではどうにも停滞しているように見える影をクジラのそれに見立て、そうすることで自分の今見ている表層としての絵画的な海洋の姿と、図鑑で見た未知と暗黒の凝縮体としての海洋の姿とを、具体的なイメージとともに結びつけようとしばしば苦心した。クジラはそのふたつの両極端の海洋を、巨大な身体でゆうゆうと行き来するビークルのようなものだった。私の意識はクジラという潜水艇に搭乗し、光に充ちた美しい海に隠された数しれぬ神秘を探査するべく、何度も何度もイメージの奥底へダイヴを試みるのだ。そうしているとき、私は心から自分が大いなる地球の作用と繋がっていると感じられたのだし、そうした感覚を、私は祖母の運転する帰り道の後部座席で、波に揺られるような錯覚を体の奥底に覚えながら、ひとつひとつ磨き上げて心にしまいこんでいったのである。そのためかどうかは確かではないが、海洋の暖かな懐へ深く潜り込んでいくイメージとそれによってもたらされる感覚は、祖父母に見守られながら、帰り道の暮れなずむ後部座席でうとうとするときのこのうえない安心感(Saudade)とたしかに繋がっているのだと今でも感じることがある。
ここでコマーシャル。
3月15日(土)は大好きななぎの卒業イヴェント!
まあ、正直嫌ですけどね、こればっかりは仕方ありません。なぎが新しい決断をして、素敵な場所で活躍できるよう応援したいと思います。
なぎは素晴らしい先輩で、気のおけない仲間で、大好きな友人です。私がまだこうしてメイドを続けていられるのも、なぎに負うものは大きいです。
なぎの新しい門出を一緒にお祝いしましょう。素晴らしい一日になるといいと思っています。
タル・ベーラ監督の映画『ヴェルクマイスター・ハーモニー』は、無知で愚かだが基本的には善良な人々の住まう田舎町を舞台に、徐々に狂気と暴動の王国へと変貌していく共同体の不条理を、2時間半の上映時間にわずか37カットのみという脅威の長回しで見事に映し出した作品である。そして、その中心に暴動の引き金としてどっしりと横たわっているのが、サーカスの見世物として広場の中心に据え置かれたクジラの遺骸なのだ。
サーカスのトレーラーの扉ががゆっくりと、うんざりするほど遅鈍なペースをとって開くと、そこに詰め込まれていた濃密な暗黒が、重く粘り気のある油のようなテクスチュアをもって、広場に惚けたように立ちすくむ人々の足元の低い部分へとゆっくり漏れ出してゆく。そして、外部に暴かれる闇と入れ替わりにひっそりとトレーラーの内部へ差し込む曇天のくぐもった光がその生物の輪郭を白くふちどるとき、全ての光を失ったはずのその瞳は再び途方もない時間の質量を取り戻し、地球の意思[そのもの]を瞬かせて爛々と運動し始めるのである。
本作において、人々を狂疾へと駆りたてたものとは結局なんだったのだろうか。その集団的狂気の根底に、我々は一体なにを探ることができるのだろうか。
私はそこにクジラの仕掛ける無窮のイノセンスを見る。つまり、クジラという存在は人々にとってあまりに無垢であり、自然そのものの象徴として機能しえたのである。
例えば煙のもくもくと立ちこめる焼肉店にいるところを想像されたし。そして、今あなたが囲んでいるテーブルの中心、今の今まで焼き網があったはずのところに突然丸々と肥え太った牛が出現、あなたを大儀そうな目でじろりと見すえて「モォー」とひと鳴きする。このとき、あなたがその手に持っている大きな茶碗に、焼肉屋の薄い光を反射させてキラキラと輝いていたはずの脂の乗った素晴らしいカルビは、牛の出現によってすぐさまおぞましい生物の肉片へと変貌するだろう。これは、生き物としての牛の実在性が、目の前のカルビとあまりにも明白に接続してしまうことで、我々人間がお得意の鈍感さと忘れっぽさによりご馳走として認識できていたはずのものが、再び忌まわしき生命の象徴として機能し始めてしまうためである。我々が、自然とは切り離された文明社会を生きる存在として自らを認識し、自然の持つある種野蛮な本性を無視することができているのは、忘却と、幾重にも張り巡らされた理性の作用のためにほかならない。しかし、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』のクジラのように、そのようにしてこしらえた厚い防壁の中心に、突如として自然そのものの象徴が迷い込んでしまった場合、我々が日々行っている「無視」の試みは、内側から見るも無惨に崩壊していってしまうのである。本作において、村人たちがその善良さを保ち、慎ましくも健やかな生活を送るために必要だった人間的な繋がりは、闇とともに村じゅうへ流れ出したクジラのイノセンスによって人間以前の、つまり自然/natureの所産へと置き代わるのであり、そのあまりに強烈な作用にあてられた村人たちは、ホッブズの言う「自然状態」さながら他者性の損壊へと一目散に向かっていくのである。
タル・ベーラがこのような顛末を通して我々に見せるのは、人間的なるものの脆弱性と自然の想像を絶する威力である。そして、その中心に君臨し、自然そのものの象徴として人々を意のままに操ってしまうクジラという存在は、やはり自然が定める運命に翻弄され続ける生物という以前に、地球のシステムの一端を構築し、その歯車として地球とともに何億年という時を超える自然そのものだといってもいいのかもしれない。クジラがその存在を通して我々に示してみせる地球のダイナミズムは、それが常にもたらしてくれる限りない神秘と探究心ゆえに、いつになっても私の心をぐっと掴んでやまないのである。