寝坊。
明け方、家族と私自身に関する曖昧な夢を見て、目が覚めたら9時だった。
起床予定時刻は8時。
私は生まれてこの方、寝坊というものを数えるほどしかしたことがない。それは私が次の日に何か予定が立っていることに対して非常に過敏な人間で、夢の中で一足先にその予定を実行してしまうくらいには心配性でもあるからだ。
寝起きも悪くない。仮にベッド脇にプリキュアのコスプレをしたお相撲さん2人と行司が立っていて、彼らの「はっけよ〜い、プリッキュア〜☆」の怒号で中途半端に短い睡眠を寸断されてしまったのだとしても、私はちっとも怒らない自信がある。(唯一嫌だと思ったのは、小学生のころ、漫画に憧れた母親がフライパンをおたまで叩く音で起こされたときのことで、それ以来私は欠かさず自分で目覚ましをかけて起きるようになった。)
しかし今回はやってしまった。ここ一週間くらいずっと体調が優れないことも影響していたと思うのだが、結局はひとえに私の怠惰ゆえだろう。目覚ましは鳴ったのか!?寝坊を確認してまずアラームの性能に文句をつけようとするのは他責思考のなせる技である。とにかく私はこの時点で1時間の寝坊を犯していた。
私は根が卑小な人間であるから、そのとき一番に考えていたことは約束していた友人への罪悪感でもなければ一分でも早く到着しようという気構えでもなく、ただ寝坊した自分に対しての苛立ち、そして普段から平気で寝坊するような奴だと誤解されたら嫌だなというみみっちい自意識への同情心だけだった。ほとほと、自分でも嫌になるような性格をしている。
さらに困ったのは電車に乗ってからだった。私は電車のような、どうやっても誰かの目から逃げられない空間に留まることが苦手で、普段なら本を読んだり音楽を聴いたりして自分だけの世界に没頭することでほかの情報を遮断することにしているのだが、そのときは乗り換えを調べること、友人に連絡すること、髪をまとめること、呼吸を整えること、などなどやらなければならないことが頭の中をぐるぐると駆け巡っていて、それらがやがて吹きすさぶ突風となって私の頭を内側から丸ごと爆発させようとしていた。手に負えないことに、私は同時に2つ以上のことを考えるのが不得手だから、やることが色々並立しているときはそれらを処理することができなくなってしまう。「どうすればいいんだろう」と考えることに手一杯で、「まずはこれ、次はこれ」と順序だてて物事をひとつひとつ解決していくことができないのだ。電車は快速、駅と駅の間は5分以上空いている。
焦燥、不安、自分への苛立ち、それらが混じりあって疾走し、脳の壁と擦れて気の遠くなるような高熱を発した。パニックが臨海に達したとき、私は叫び出すよりも一瞬早く、電車の折良く到着した駅のホームへ逃げるように転がり出た。人の目を避けて自動販売機の影にうずくまる。すぐ横で乗ってきた電車のドアが無機質に閉まり、すぐに走り出すのが分かった。
これで私の遅刻はさらに延長されたことになる。人のまばらなホームの端っこで、頭の熱は徐々にひいていきつつあったが、今度はむしろ寒冷すぎるほどの焦りと絶望とが全身を支配しつつあった。みぞおちの辺りが細い女の手でぎゅっと絞られたように冷たく痛んだ。
時間をかけて呼吸を整えた。しかし、私は自分が「女装した男」だとみなされることに常に強い恐怖心をもっているから、さらに精神の動揺した状態で街を歩くのは至難の業だった。私は路地裏の暗い影の溜まったところにしゃがみこんだり、俯いてすれ違いざまの視線を回避しようとしたり、落ち着かない時間を過ごした。
集合場所は錦糸町で、私の今いる場所からは電車で30分ほどかかるようだった。本来の集合時間からはすでに1時間以上がすぎている。大きくため息をついて、今自分にできそうなことを一生懸命考えた、しかし私には彼らの前から永遠に姿を消してしまうことしかないように思えた。これまでもそうやって何度も人を裏切り続けてきた。現在進行している自分の失敗に向き合うことよりも、その人との過去と、来るべき未来をまるきり裏切ることを選び、全てを遮断して時間が喪失の痛みを和らげてくれるのをただ待ち続けるのだ。恥の多い生涯では生ぬるい。恥に基づいて、恥のみによって構築されてきた馬鹿げた生涯である。私は時々、そのようにして裏切り続けてきた過去のあまりの質量に耐えきれなくなってしまうことがある。私の積み重ねた恥を吸い込めるだけ吸い込んで、全方向から私を押し潰そうとする過去、そこからなんとか這い出ようともがくあまり、私は長いこと現在というものを直視できていない気がする。私の生き方があまりに刹那的で、急峻で、愚かしく見えてしまうのは決して若さのためなんかではなく、ひとえに私が自分の卑屈さと対峙することを後回しにし続けているからなのだ。
携帯電話を見るのが怖かった。人を裏切る瞬間の気持ちは、食べている途中のショートケーキを横倒しにしてしまう瞬間のそれに似ている。もうどうでもいいやという投げやりで冷酷な決心が、気持ちの底でべとつく罪悪感をふわりと浮かしてしまうようなあの感覚。あとはか細くなってぐらつくケーキを、フォークでほんの少しだけ押してやりさえすれば良かった。いつものことだからいまさら怖いことなんてないよ。電車の線路に飛び込んだ女子高生も同じようなことを考えたんだろうか。
連絡先を消そうとスマホを開いた。その瞬間飛び込んだ一件の通知。
「今から車で迎えに行くから!」
私は驚いて思わず ああ!と声をあげた。涙があふれた。約束から逃げた私に、約束の方から追突してくれる、その精神はまさしく愛だと思った。それも、私には重すぎる愛だ。今すぐにでも友人を強く抱き締めたくてたまらないという気持ちと、ハサミでズタズタに引き裂いてやりたいという気持ちがちょうど同じくらい溢れて、私はとにかく自分が嫌になった。そんなことはされたくなかった。私は永遠に約束から逃げ惑っていたかった。友人に縋った方が心はずっと強く痛むだろう。同じ痛みならば、逃げ惑って心を閉ざしてしまうことの痛みの方がはるかに楽なのじゃないか?
走り出した。目に付いたところを手当たり次第に曲がり、電柱を殴り、信号を無視した。なんの音も聞こえなくなって、世界には初夏の太陽に滲む汗と荒く乱れる呼吸の音だけが同居していた。それでも約束は追ってくる。愛という抗いがたい引力によって。
私はとうとう観念した。立ち止まって友人へ居場所を送った。乱れた呼吸の私を通行人が不思議そうにじろじろ眺めたが私は少しも気にしなかった。時速60kmで私を追いかける黄金の愛情と、その影となって対をなす恥辱のことを一生懸命に考え続けた。
一時間後に彼らはやってきた。
アイリとマコトである。彼らは私を強く抱き締めてくれた。私は恥ずかしくてたまらなかった。心から申し訳ないと思った。しかし、どんなに抑えたところで彼らへの愛情は隠しきれないほどに心の底からこんこんと湧き続けて、私の胸をいっぱいにした。しかし私にはそれを彼らに伝える手段のひとつもなく、ただ掠れた声でありがとうを繰り返すことしかできないのだった。
私たちは地元のカレーチェーンでカレーを食べ、それから車へ乗り込んだ。荷物の散らばった後部座席から見据える2人は眩しい。そして車は進行した。静かに、というには少々高らかなエンジン音をあげて。目的地は箱根。これから私たちは首都高を抜けて湯煙立つ非日常の世界へと飛び込むのだ。
遊んだ内容は次回以降に書きます。
今日のアルバム
坂本龍一『トニー滝谷』
大きな力によって大切にしていたはずの何もかもから自分だけ無理やり引き離されてしまったそのとき、かつて傲慢にも何もかもから距離を置きたいと思っていた自分のことを、私は憎くて憎くて仕方なくなってしまったりするのだろうか。
『トニー滝谷』は村上春樹による同名の短編小説を原作とする市川準監督の実写映画。音楽を坂本龍一が担当している。「トニー滝谷」と名付けられた男の数奇な生い立ちと、その後の愛と喪失が描かれていて、トニー滝谷と、彼に雇われた女との些細だが見過ごせない関係性が浮遊感のある奇妙な空気を醸造する。
水だけの入った水槽が横にいくつも並べられているような映画だ。そのひとつひとつの状態に特段これといった変化はないのだが、微妙な光の屈折や水面の波紋、向こう側に透けて見える景色、そんなようなものが映画にほんの少しだけ一方向の矢印を加え、物語を前方にそっと押しだしている。
何かを失うということはこんなにあっけなく、退屈なことだったのかと思う。喪失は劇的であってほしい。弦楽オーケストラの壮大な劇伴の流れるなか、主人公は泣き叫んで、画面はスローモーションになる。配給会社はもちろんそこを予告編に使うし、予告編の最後には試写会に参加した人々のハンカチで目元を抑えるカットとともに、「この夏、感動があなたを包み込む」というキャッチフレーズが付される。喪失という儀式は、そうした一連のお約束の中にのみ進行してほしい。そうすれば限りなく陳腐化されたコンテクストの中で、個別の体験自体はすぐに忘れ去ることができて、無闇に長々と悲しみにくれる必要もないから。
しかしトニー滝谷の喪失は静かだった。無言のままに完了し、彼のいい加減な笑顔だけで過去に封印される。トニー滝谷の空虚は、私の中にいつまでも残って離れようとしない。
ういなさん生誕。
ういな生誕イベント『妖うい夜≪NIGHT≫』開催のお知らせ!
ういなさんは彦摩呂のLINEを持っている。
ホラーイヴェント。
13日の金曜日イベント『NTホラーナイト!』開催のお知らせ!
ちさとは「逆ドラキュラ」なので、十字架以外の全てが怖いし、ニンニク以外の全てが嫌い。
せりにゃん生誕。
せりにゃんはモグリでケバブ屋を経営している。